源氏物語

若菜上(わかなじょう)

土佐光信「若菜上」源氏物語絵アルバム第34帖、ハーバード美術館所蔵(1509-1510年)
君がため春の野に出でて若菜摘む
わが衣手に雪は降りつつ

あらすじ

源氏は四十の賀(長寿の祝ひ)を盛大に迎へ、六条院の主として栄光の絶頂にあります。しかし、その輝きの裏に、静かな陰りが忍び寄ります。

朱雀院(源氏の兄)が出家を望みながら、愛娘・女三の宮の行く末を案じてゐます。朱雀院は源氏に女三の宮の後見を頼み込み、源氏はこれを引き受けます。かくして女三の宮が源氏の正妻として六条院に降嫁することになります。

この出来事は、紫の上に深い傷を与へます。源氏がこれほど大切にしてきた紫の上でさへ、正式な妻ではなかった。女三の宮の降嫁は、その現実を残酷に明らかにします。源氏の栄光と、その影に生きた女たちの哀しみ――物語はここから、深い悲劇へと向かって動き始めます。

若菜── 新春の野草に込めた思ひ

「若菜」は、新春に摘む若い草のこと。新年の若菜摘みの場面から帖が始まりますが、その清々しい季節感は、やがて訪れる嵐の前の静けさのやうでもあります。

君がため 春の野に出でて 若菜摘む
わが衣手に 雪は降りつつ

百人一首にも採られたこの歌(光孝天皇作)は、若菜の帖の世界観と重なります。愛する人のために、冬の終はりの野に出て若菜を摘む――そんな純粋な献身が、物語の背後に流れてをります。

登場人物

女三の宮(おんなさんのみや)

朱雀院の最愛の娘。内親王といふ高い身分を持ちながら、幼く、たよりない性格の持ち主。源氏の正妻として六条院に降嫁するが、その後も物語に大きな波紋を呼ぶ。

紫の上(むらさきのうへ)

源氏が生涯最も愛した女性。しかし正式な妻ではなく、女三の宮の降嫁によって自らの立場の脆さを突きつけられる。この帖から紫の上の悲劇は始まる。

朱雀院(すざくいん)

源氏の兄。温和で情深い人物。娘・女三の宮の将来を心配し、出家の前に源氏へ後見を託す。

栄光の頂から始まる転落

わたくしは、この帖から物語の色調を意識して変へてまゐりました。輝かしい前半部から、人の世の哀しみが色濃くなる後半部へ――その転換点が「若菜」の帖です。

どれほど高い地位を得ても、どれほど多くの人に愛されても、人は孤独からは逃れられない。源氏の栄光の絶頂が、そのまま哀しみの始まりとなる。この逆説の中に、わたくしは人の世の真実を見てをります。


『源氏物語』第三十四帖「若菜上」
── 紫式部 謹んで記す