あらすじ
「若菜」の下巻は、源氏物語第二部の核心となる悲劇を描きます。柏木(内大臣の嫡子)は女三の宮に秘かな恋心を抱き、蹴鞠の日に御簾越しに宮の姿を垣間見て以来、その想ひを抑えることができませんでした。ついに柏木は無謀にも女三の宮のもとへ忍び込み、密通してしまひます。
女三の宮は懐妊し、やがて薫が生まれます。その子の父が柏木であることを、源氏は静かに、しかし確実に悟ります。かつて自分が継母・藤壺に犯した罪と同じことが、今度は自分の妻に対して行はれた。源氏は苦い業(ごう)の巡りを感じます。
一方、紫の上が重い病に倒れます。かつてない深刻な病で、読経の声が六条院に絶えません。源氏は紫の上を失ふかもしれない恐怖に初めて直面し、これまで当然のやうに存在してゐた最愛の人の命の儚さを思ひ知ります。紫の上は一命を取り留めますが、源氏の心には、取り返しのつかないものへの予感が静かに根を張り始めます。
登場人物
柏木(かしわぎ)
女三の宮への叶はぬ恋に焦がれ、ついに一線を越えてしまふ。源氏の冷たい眼差しに気づいてから、罪悪感に苛まれ命を削ってゆく。美しく才能ある若者の悲劇的な末路。
女三の宮(おんなさんのみや)
朱雀帝の愛娘として大切に育てられたが、宮廷の現実の前には無力だった。密通の後、出家を決意する。その弱さと清らかさが、この帖の哀れを深める。
光源氏(ひかるげんじ)
秘密を知りながら公には怒れず、柏木を静かな眼差しで苦しめる。かつての藤壺との罪を思ひ、因果の深さを感じてゐる。老いの影が源氏の顔にも差し始める。
紫の上(むらさきのうえ)
重病に倒れ、生死の境をさまよふ。源氏は初めて「紫の上を失ふ」現実と向き合ふ。紫の上もまた、源氏の愛が揺るがぬことを確かめながら、命の儚さを想ふ。
若菜下の歌 ── 春を知らずや
病の床で苦しみながら、紫の上は静かに歌を詠みます。
深き春とも知らずやあるらん
「命があればまた見られるだらうか、(源氏の)心の深い春のことを知らないままでゐるのだらうか」――源氏への変はらぬ愛を「春」に喩へ、命が尽きても気づいてゐるかどうかわからないと詠む紫の上の哀しみが、静かな言葉の中に込められてをります。
物語の意義 ── 業(ごう)の巡り
「若菜下」は源氏物語の大きな転換点でございます。光源氏が若き日に犯した罪が、今度は自分が被害者の立場で繰り返される。この因果応報の構図が、物語全体を貫く哲学的なテーマを鮮明にします。
栄華の頂点にゐた源氏の足元に、亀裂が入り始めてをります。紫の上の病がそれを知らせ、女三の宮の事件がそれを深め、やがてすべては──「御法」の帖へと向かってゆきます。
『源氏物語』第三十五帖「若菜下」
── 紫式部 謹んで記す