あらすじ
六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)は、源氏への思ひと恨みを胸に、幼い娘(のちの斎宮)とともに伊勢へ下ることを決意します。源氏は野宮(ののみや)に御息所を訪ね、別れを告げます。秋の野の露に濡れた賢木(榊)の枝を折って持参した源氏――それが帖名の由来です。
やがて桐壺帝が崩御されます。源氏の最大の庇護者を失ったこの出来事は、源氏の立場を大きく揺るがします。政権は右大臣家へと傾き、源氏を取り巻く状況は一変します。
さらに源氏は朧月夜との密会を続けており、それが右大臣家に知られる危機に瀕します。また、藤壺の宮は源氏との秘密を守るべく出家を決意されます。源氏の心の支柱であった藤壺の宮が尼となられたこと――それは源氏にとって深い喪失でした。
「賢木」── 神域の常緑樹
賢木(榊)は神社の神域に生える常緑の木。変はらぬ緑を保つことから、誠実や永遠の象徴とされます。源氏が御息所への別れの際に折った賢木の枝は、変はらぬ思ひの証でありながら、実際には変はってゆく二人の関係を暗示してをります。
神垣遠き 野辺にまどふかな
野宮を訪れた源氏が詠んだ歌。「榊葉の香りが懐かしく、神垣の遠い野辺まで迷ひ込んでしまった」――あなたのもとへ来ずにはゐられなかった、そんな思ひが込められてをります。
登場人物
六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)
前東宮妃にして源氏の恋人のひとり。プライドが高く、深く愛するがゆゑに激しく苦しむ女性。生霊となって葵の上を苦しめた後、娘とともに伊勢へ下る。源氏物語で最も複雑な内面を持つ女性のひとり。
藤壺の宮(ふじつぼのみや)
秘密の重さに耐えかね、源氏との縁を断ち切るべく出家を決意。尼となることで、ふたりの禁断の関係に終止符を打つ。
別れと喪失の帖
この帖には、別れが重なります。御息所との別れ、藤壺の宮の出家、桐壺帝の崩御。源氏の世界を支へてゐた柱が、次々と失はれてゆく。
わたくしは、賢木の常緑の葉のやうに変はらないでゐたいといふ人の願ひと、それでも変はってゆく現実のあひだにある哀しみを、この帖に刻みました。変はらないものなど、この世にはないのです。
『源氏物語』第十帖「賢木」
── 紫式部 謹んで記す