あらすじ
長らく病に伏せってゐた藤壺の宮が、ついに三十七年の生涯を閉じられます。出家された後も源氏の君が心の裡に秘め続けてきた最も深い愛の対象を、この帖において失ふことになります。宮の御歌の才、すべての女人を照らすやうな気品、そして冷泉帝をめぐる秘密――それらがすべて、薄雲のやうに空へ昇ってゆくやうでした。
源氏の君は公の場では威儀を正しながら、しかし心の奥では人知れず嘆き続けます。最も愛した女人の死に、男泣きにも泣けず、ただ袖を濡らすばかりの源氏の姿が、この帖の静かな悲しみの核心にございます。
一方、大堰に暮らす明石の御方は、幼い姫君(後の明石中宮)を紫の上のもとへ引き取らせることを、ついに承知します。娘の将来のためと頭ではわかりながら、それでも母の心は千々に乱れます。紫の上は姫君を我が子のやうに慈しみ育てることを誓ひますが、明石の御方の胸に残る空洞は、容易には埋まるものではありませんでした。
また、六条御息所の忘れ形見である秋好む中宮が、冷泉帝に入内なさいます。源氏の後ろ盾を得て中宮の位につかれた秋好む中宮の姿に、亡き六条御息所への鎮魂の念と、生者の栄達とが複雑に交差します。
登場人物
藤壺の宮(ふじつぼのみや)
帝の御后にして、冷泉帝の「公の母」、そして源氏の秘めた恋の人。崩御されることで、源氏の胸に空いた穴は生涯塞がれることなく、紫の上への愛の礎ともなり続ける。
光源氏(ひかるげんじ)
最も深く想った女人の死に、公の場では泣くことも許されない。「入日さす峰にたなびく薄雲」の歌に、抑へきれぬ悲嘆を込める。
明石の御方(あかしのおんかた)
姫君を手放す覚悟を固めた母。その知性と矜持は悲しみより先に正しい答へを選ぶが、そのことがかへって彼女を孤独にする。
秋好む中宮(あきこのむちゅうぐう)
六条御息所の忘れ形見。母が生前に果たせなかった入内を、源氏の力添へを得て叶へる。亡き母への想ひと、今を生きる中宮の喜びとが混ざり合ふ。
冷泉帝(れいぜいてい)
表向きは先帝の御子として即位されてゐるが、やがてその出生の秘密を知ることになる帝。この帖では、まだ純粋に愛される君主として描かれる。
薄雲の歌 ── 悲嘆の色
夕暮れ時、西の空が赤く染まる中、峰の上に薄雲がたなびいてをります。源氏の君はその雲をじつと見つめて、静かに歌を詠みました。
物思ふ袖に色やまがへる
「夕日に染まった峰にたなびく薄雲は、物思ひに濡れた私の袖の色と変はらぬやうに見える」――そのやうな意でございます。源氏の君の嘆きの深さが、この一首に凝縮されてをります。直接に悲しみを訴へることなく、雲の色と袖の色を重ねることで、人には言へぬ心の内をそっと漏らしてをります。
物語の意義 ── 失ふことの先に
「薄雲」の帖は、失ふことの物語でございます。藤壺の宮を失ひ、明石の御方は娘を失ひ、そして源氏自身も、最も深く想った女人との秘密の絆を永遠に失ひます。
しかし、失ふことで次の物語が動き出します。明石の姫君が紫の上のもとで育つことで、後の輝かしい運命が開かれます。秋好む中宮が入内することで、六条院の栄華がより一層固まります。源氏の悲しみは、やがてすべての女人への深い慈しみとなって注がれてゆきます。
薄雲は消えても、その後の空はいつか晴れわたります。
『源氏物語』第十九帖「薄雲」
── 紫式部 謹んで記す