あらすじ
六条院が完成し、源氏の君の栄華は揺るぎないものとなりました。春の御殿には紫の上、夏の御殿には花散里、秋の御殿には秋好む中宮、冬の御殿には明石の御方と、四季に合はせた四つの御殿が立ち並ぶ壮麗な大邸宅でございます。
しかしながら、栄華の頂に立った源氏の君の心には、長年抱き続けた恋の未練がまだくすぶってをりました。桃園に引退された前斎院・朝顔の君(五十宮)への想ひでございます。若い頃より憧れ続け、しかし一度も近づけなかったその方へ、源氏の君は再び手紙を送り始めます。
朝顔の君は、亡き父・式部卿の宮の服喪を理由に、源氏の訪ひを丁寧に断ります。その返歌はいつも風雅で知性に満ち、しかし一切の隙を見せません。賢明な拒絶の仕方といふものを、朝顔の君は誰よりもご存じでした。
一方、紫の上は源氏の君がなほも朝顔の君に執着することを知り、胸を痛めます。ある雪の降る夜、源氏の君が亡き藤壺の宮を偲んで語る場面がございます。その言葉の端々に、紫の上は自分の立場の危ふさを感じます。源氏の君がどれほど紫の上を愛してゐようとも、その心の奥底には、他の誰かへの愛が眠ってゐるやうに見えて――。
結局、朝顔の君との恋は実ることなく終はります。しかし源氏の君は、その孤独の中でかへって紫の上の存在の深さに気づくのでした。手に入らなかったことで、手の中にあるものの尊さを知る――そのやうな逆説が、この帖に静かに流れてをります。
登場人物
朝顔の君(あさがおのきみ)
五十宮。源氏が若い頃より想ひを寄せ続けた女性。「朝顔」のやうに淡く明るく咲いて、人が触れやうとすると露のやうに引いてしまふ。その拒絶は冷淡ではなく、むしろ温かく賢い。源氏の語りかけに必ず歌で応じながら、決して踏み込ませない矜持の高さが印象的。
光源氏(ひかるげんじ)
栄華を極めてもなほ、手の届かなかった恋への未練を手放せない。世の誰もが仰ぎ見る太政大臣が、一人の女性に拒まれ続けて苦しむ姿は、人間的な可笑しさと哀れさを持つ。
紫の上(むらさきのうえ)
源氏の最も近くにゐる女性でありながら、源氏の心の奥底にある「もう一人の女人」の影に不安を覚える。雪の夜に涙を堪へながら毅然として振る舞ふ紫の上の姿は、この帖の最も胸に残る場面。
冬の拒絶 ── 朝顔の歌
霜に枯れた垣根に、菊の花がひつそりと残ってをります。源氏の君の訪ひを断る朝顔の君の返歌でございます。
人の訪れを待つとしもなし
「霜枯れの垣根の菊も、特段誰かの訪れを待ってゐるわけではないのです」――そのやうな意でございます。直接に拒絶するのではなく、枯れた菊の花にことよせて距離を置く。その奥ゆかしさと毅然たる態度が、朝顔の君の人柄そのものを表してをります。源氏の君は美しい拒絶の歌を受け取りながら、なほ諦めきれず、しかしいつかは諦めなければならぬと知るのでした。
物語の意義 ── 雪の夜の問ひかけ
「朝顔」の帖は、恋の本質を問ふ帖でございます。源氏の君は手に入らなかった朝顔の君へ焦がれ続けましたが、それは本当に「愛」だったのでせうか。それとも、手に入らないがゆゑの幻想でせうか。
雪の夜に藤壺の宮を偲んで語る源氏の君の横で、紫の上はひとり涙を堪へます。手の届かぬ女人への恋と、目の前にゐる最愛の人への愛。源氏の君はその問ひに、まだ答へを持ってをりませんでした。
『源氏物語』第二十帖「朝顔」
── 紫式部 謹んで記す