源氏物語

松風(まつかぜ)

土佐光信「松風」源氏物語絵アルバム第18帖、ハーバード美術館所蔵(1509-1510年)
松風に吹き合ふ琴の声にこそ
弾き留めたる山の端の月

あらすじ

明石の入道は、娘・明石の御方と孫娘(幼い姫君)を、明石の田舎から都近くの大堰(おほゐ)へと移すことを決意します。入道は孫娘の将来に深い望みを抱いており、都の風に触れさせることこそが姫の宿命を開くと信じてをりました。移住の準備を整へた入道は、自身は明石に留まることを選びます。

大堰に落ち着いた明石の御方を、源氏の君がようやく訪ねます。久しぶりの逢瀬は、都と片田舎のすれ違ひを経てなほ変はらぬ想ひを確かめ合ふものでした。源氏の君は幼い姫をはじめて間近で見て、その愛らしさに深く心を動かされます。

しかし源氏の君の心には、次の考へが芽生へてきます。この姫は自分の娘。紫の上に引き取らせ、宮中に相応しい教育を受けさせれば、さらに大きな未来が開けるのではないか――。その考へを明石の御方に打ち明けるとき、母としての悲しみと、娘の将来への願ひとの間で揺れる御方の心が、静かに、しかし深く描かれます。

一方で大堰を訪れた源氏が、紫の上のことを思ひながら手紙を書く場面も描かれます。距離を置きながらも、ふたりの心が常に繋がってゐることが伝はります。

登場人物

明石の御方(あかしのおんかた)

娘を源氏の手に委ねることの悲しみと、娘の輝かしい未来への願ひとの間で揺れる母親の姿が、この帖の核心にある。才気と矜持を持ちながら、それでも母として泣く場面が読む者の胸を打つ。

明石の姫君(あかしのひめぎみ)〔幼少〕

源氏と明石の御方の間に生まれた幼い姫。将来の中宮となる運命を秘めた愛らしい存在。父・源氏の君にはじめて間近で対面する。

光源氏(ひかるげんじ)

大堰を訪ね、娘の将来を案じる。明石の御方の悲しみに気づきながら、それでも姫を紫の上のもとに引き取ることを考へ続ける。善意と無神経さが混ざり合ふ源氏の君の複雑さが出る帖。

明石の入道(あかしのにゅうどう)

孫娘の将来を信じ、自身は明石に留まることを選ぶ祖父。俗世を離れながらも孫への深い愛情を持ち、娘と別れることの寂しさを隠して笑顔で送り出す姿が切ない。

大堰の秋 ── 松風の歌

嵐山のふもと、桂川のほとりに構へた大堰の山荘。秋の風が松を渡り、川の音が静かに流れます。源氏の君は琴を爪弾きながら、明石の御方と向かひ合ひます。

松風に 吹き合ふ琴の 声にこそ
弾き留めたる 山の端の月

「松風に吹き合はせて爪弾く琴の音に、山の端にかかった月も引き留められるやうだ」――源氏の君の一首でございます。松風と琴の音が重なり合ひ、月の光が降り注ぐ大堰の秋の夜。その美しい情景の中に、明石の御方の泣いてゐる顔が重なります。美しい場面であればあるほど、その奥の悲しみが際立ちます。

母の涙 ── 明石の御方の覚悟

源氏の君が姫の引き取りを提案したとき、明石の御方は即座に拒みませんでした。拒むことが娘の未来を摘んでしまふと知ってゐたから。しかし承知することが母として最大の試練であることも、よくわかってをりました。

明石の御方の知性は、感情より先に「正しい選択」を見極めます。その知性が彼女を孤独にし、しかしそれが同時に彼女を誰よりも気高い女人にしてをります。

物語の意義 ── 別離の美学

「松風」の帖は、別れることで愛する者の幸せを願ふ、という源氏物語の深いテーマを担ひます。明石の入道が娘たちを送り出して明石に残る。明石の御方が姫を手放すことを覚悟する。

手放すことが愛の形になり得る――それをわたくしは松風の音に乗せて語りました。引き留めず、送り出し、それでも心の底で繋がり続けることの美しさが、この帖の余韻にございます。


『源氏物語』第十八帖「松風」
── 紫式部 謹んで記す