あらすじ
冷泉帝の後宮では、梅壺の女御(秋好中宮)と弘徽殿の女御との間に、帝の御心を巡る静かな競ひが続いてゐます。学才に優れた前斎宮は六条御息所の娘として気品を持ちますが、弘徽殿の女御は権大納言(かつての頭の中将)を父に持つ権門の後ろ盾を誇ります。
宮中でこのふたりの派閥が絵を持ち寄り、冷泉帝の御前で優劣を競ふ「絵合はせ」が催されることになりました。当代きっての絵師の作品が次々に出品され、左右の局から選りすぐりの名品が並びます。
絵合はせは伯仲し、なかなか勝敗が決まりません。そこへ源氏の君が、かつて須磨・明石での流謫の日々に自ら描き綴った絵日記を持ち出します。須磨の嵐の夜、明石の海の月、都を恋ひながら筆を走らせた日々の記録――それは単なる絵を超えた、魂の記録でした。
冷泉帝はこの絵日記を御覧になり、深く心を動かされます。帝の感動は絵の優劣を超えたものでした。源氏の流謫の歳月が宿る絵日記の前に、弘徽殿方の絵もすべて色褪せ、梅壺の女御方の勝利が決まります。
登場人物
梅壺の女御・秋好中宮(うめつぼのにょうご)
六条御息所の娘にして源氏の養女。斎宮を退いて冷泉帝に入内した前斎宮。源氏が後見し、この絵合はせでの勝利が彼女の宮中での地位を確固たるものにする。のちに中宮となり「秋好中宮」と呼ばれる。
冷泉帝(れいぜいてい)
源氏と藤壺の秘密の御子にして現帝。父の流謫の日々を綴った絵日記に深く感動する。その胸の内には、語られぬ複雑な感慨があったはずである。
権大納言(ごんのだいなごん)=頭の中将
弘徽殿の女御の父。かつて源氏と競ひ合ひ、今も宮中での権勢を争ふ。絵合はせでは敗北するが、物語はこのふたりの長い競ひを丁寧に描き続ける。
光源氏(ひかるげんじ)
須磨での絵日記を決め手として持ち出す。流謫の歳月が、宮中の絵合はせにおいて思はぬ力を持つことになる。苦しみの時間を「財産」に変へた男の底力が光る場面。
須磨の絵日記 ── 魂の記録
源氏の君が須磨の仮の宿で描き続けた絵日記には、言葉にならない孤独と望郷が込められてをりました。荒れ狂ふ嵐の夜、月が海を照らす静かな秋の夜、都の人々を思ひながら描いた絵の数々。
これなくは 何につけてか 世を思はまし
「この絵日記だけが今の心の慰め。これがなければ、いったい何につけて世の無常を思ひ続けることができようか」――流謫の孤独の中で描き続けた絵が、のちに宮中の絵合はせを決する力を持つとは、源氏の君も思ひよらなかったことでありませう。
絵合はせの美学 ── 平安の芸術論
「絵合」の帖は、単なる後宮の争ひの話ではありません。わたくしはここで、平安の宮廷文化における「絵」の意味について深く考へました。
絵は単に美しいものを写すのではなく、描く者の魂を映すものでございます。技巧の粋を尽くした名絵師の作品よりも、流謫の孤独の中で描かれた素朴な絵日記の方が見る者の心を動かすことがある。それは「上手さ」より「真実」が人を動かすといふことでございます。
物語の意義 ── 苦しみが財産になる日
「絵合」の帖には、源氏物語全体を貫くひとつのメッセージが込められてをります。須磨の流謫は、源氏の君にとって屈辱と喪失の歳月でした。しかしその苦しみの中で描き続けた絵日記が、宮中でもっとも強い力を持つ「武器」になったのです。
苦しみの時間は無駄ではない。それがいつか思ひがけない形で実を結ぶことがある――わたくしが「絵合」で静かに語りかけたかった、ひとつの真実でございます。
『源氏物語』第十七帖「絵合」
── 紫式部 謹んで記す