清少納言こそ、したり顔にいみじうはべりける人と思ふに、かくも彼女のことを書きつけるは、我ながら不思議なことにさぶらふ。
彼女はさかしらに漢字をも書き散らし、よく見れば何ほどのこともなき節々も多かりき、と世の人は言ひぬ。さやうに言はるる清少納言と、定子さまの御前で輝いておられた清少納言とが、果たして同じお方なのかと、わたくしはいつも思はずにをれぬ。
才知を見せることは、才知を隠すことより容易き道にさぶらふ。輝かしく咲く花は人の目を引くが、根はいつも土の中にあり。かの人の「枕草子」の明るさは、まことに磨かれた才の光でありて、わたくしにはとてもかやうには書けぬ。
わたくしは夜が明けても物語を書き続け、昼は中宮さまのお傍に侍り、文のやり取りをするに、おのずとただうつうつとした思ひを書き流すばかりにさぶらふ。清少納言がぱつと日差しのやうならば、わたくしは夜の川底をのぞき込むやうなものかもしれぬ。どちらが優れてをるとも言はれず、ただその性(さが)が異なるにさぶらふ。
されど、彼女がをられた頃の一条帝の御代と、今とを比べるに、定子さまと中宮彰子さまの御代それぞれの輝きは、まことに別々の光であり、どちらかが曇るものにはあらず、とわたくしは思ふなり。
このやうなことを書きつけるは、やはりいさぎよからぬことかもしれず。筆を止めて、また物語の続きへと戻りぬ。