ある夜、局にてひとり物語の続きを書きつけてをりしに、御簾の外より声がかかりぬ。
「若紫はさぶらふか」
殿・道長さまのお声にさぶらひぬ。わたくしは筆を止めて、少し間を置きてより、御簾越しにお答へ申しあげぬ。「さやうの方はこの局にはさぶらはず」と。
殿はしばらく笑ってをられ、「かやうに隠れてをられるものか」と仰せられて、御廊をお戻りになりぬ。その足音が遠ざかるのを聞きながら、わたくしはまた筆を取りぬ。
源氏の君の物語を書きはじめて、幾年が経ちぬ。最初は中宮さまのお傍で、女房たちにお読みかせするばかりと思ひてをりしに、いつしか殿までもその噂を耳になさるやうになりてをりぬ。かたじけなくも恐れ多きことにさぶらふ。
されど、「若紫はさぶらふか」との御問ひかけは、もの書く者には何とも複雑な心地がするものにさぶらふ。書いたものが人の口に上るとき、それはもはや自分だけのものではなくなりぬ。わたくしの書きし若紫の君は、すでに多くの人の心の中に住まひてをられるのかもしれず。
それが誉れなのか、重荷なのか、わたくしにはよくわからぬままにて、ただ筆を走らせるばかりなり。