源氏物語

宿木(やどりぎ)

土佐光信「宿木」源氏物語絵アルバム第49帖、ハーバード美術館所蔵(1509-1510年)
宿り木と思ひいづれば橘の
にほふあたりに立ちやすらはん

あらすじ

中の君が都の匂宮のもとで暮らして時が経ちます。匂宮は中の君を愛してをりますが、同時に六の君(今上帝の孫)との縁談も進んでをり、中の君の立場は必ずしも安泰とは言へません。妊娠中の中の君の孤独と不安が、この帖の中に静かに流れてをります。

薫は中の君のもとを見舞ひ、その姿に亡き大君の面影を重ねます。しかし薫は自分が中の君に向ける感情が、純粋な友情なのか大君への思慕の代替なのか、自らにも問ひかけつつ整理できずにゐます。

ある日、中の君は薫に話します。「大君の異父妹がをります。浮舟といふ女性で、今は常陸介の娘として育ちましたが、実は亡き八宮の娘のひとり」と。薫はその言葉に静かな関心を覚えます。大君に似た人がをる――その言葉が、薫の心の奥に落ちた種のやうに、やがて育ってゆきます。

宿木は他の木に絡みついて生きる植物でございます。薫の心は大君の面影に絡みつき、中の君の語る浮舟の姿に新たな宿りを求めてゐるのかもしれません。

登場人物

中の君(なかのきみ)

都で匂宮の妻として暮らしながら、孤独と不安を抱へてゐる。大君の死後、彼女が宇治十帖の悲劇の中継点として重要な役を担ふ。薫に浮舟の存在を告げることで、新たな悲劇の幕を引く。

薫(かをる)

大君への喪失感を抱へながら中の君を訪ふ。浮舟の存在を知り、亡き大君の面影を求める衝動に静かに従ってゆく。

浮舟(うきふね)

この帖にはまだ直接登場しないが、中の君の言葉の中にその存在が立ち現れる。宇治十帖最後の悲劇的ヒロインの影が、ここからはじまる。

宿木の歌 ── 宿りを求めて

薫は中の君への複雑な思ひを歌に詠みます。

宿り木と思ひいづれば橘の
にほふあたりに立ちやすらはん

「宿木と思ひ出せば、橘の香る(あなたの)あたりに佇んでしまうことよ」――「橘」は変はらぬ香りとして不変の愛を象徴します。中の君の近くにゐることで、亡き大君の香りを感じようとする薫の、迷ひと依存が込められてをります。

物語の意義 ── 悲劇の種

「宿木」は浮舟の物語への橋渡しとなる帖でございます。薫が浮舟を知るきっかけがここに生まれ、匂宮と薫がふたたび同じ女性をめぐって絡み合ふ悲劇の布石が置かれます。

宿木が他の木に宿るやうに、薫の愛は常に別の誰かの面影に宿ります。その哀しい性質が、浮舟の悲劇を招くのでございます。


『源氏物語』第四十九帖「宿木」
── 紫式部 謹んで記す