あらすじ
大君が逝ってから、宇治の山荘には重い冬が続きました。春になって、早蕨が山の端に芽吹き始める頃、宇治の生活に変化が訪れます。中の君が匂宮に引き取られ、都へ向かふことになりました。
早蕨と薇(ぜんまい)を宇治から京へ送るという風習にならって、薫は春の山の幸を中の君へ贈ります。大君の葬儀を終へ、妹を都へ送り出した後に残る薫の心には、ぽっかりとした空洞があります。宇治の山荘は今や大君の思ひ出だけを宿した場所となりました。
中の君は匂宮のもとへ行きながら、宇治を離れる哀しみと、新しい生活への期待との間で揺れます。匂宮は中の君を深く愛してゐますが、その多情な性格がいつか中の君を傷つけるかもしれないといふ不安は、いつも近くにあります。
早蕨が春の山から顔を出すやうに、残された者たちはそれでも前へ進まねばなりません。芽吹きと別れが、同じ春の中に共存するのでございます。
登場人物
中の君(なかのきみ)
大君亡き後、唯一残された宇治の姫君。匂宮に引き取られ都へ出るが、大君への思慕と宇治への愛着は消えない。これから待ち受ける都の生活の中で、中の君の繊細な心は何度も試される。
薫(かをる)
大君の面影を中の君に重ねながら見送る。その心の重なりが、中の君との関係を複雑にしてゆく。宇治に一人残り、春の山の中で大君を偲ぶ。
匂宮(においのみや)
中の君を京に迎へることを喜ぶ。率直な愛情表現は本物だが、多情な性格は隠しようもない。中の君への真心と、散りやすい花のやうな気性とが同居してゐる。
早蕨の歌 ── 山里の春
薫から中の君へ、早蕨とともに歌が贈られます。
早蕨のみぞ春を告ぐなる
「野に摘みにでなくとも、山里の早蕨だけが春を告げてくれる」――宇治の山の早蕨は、まだ都では見られぬ春の先触れ。しかし中の君は都へ去ってゆき、この山里で春を迎へる人はもういない。早蕨が告げる春は、今年から誰にも摘まれないまま散ってゆくのかもしれません。
物語の意義 ── 再生の春
「早蕨」は喪失の後の再生を描く帖でございます。大君の死後、物語は止まらず、春は来て、中の君は都へ向かひます。早蕨が土の下から押し上げてくるやうな、静かな生命力が帖全体に流れてをります。
しかし、薫の心に開いた空洞はまだ塞がりません。その空洞が、次の出会ひ――浮舟への渇望を生むのでございます。
『源氏物語』第四十八帖「早蕨」
── 紫式部 謹んで記す