あらすじ
春の六条院で、「薫物合わせ」の雅な遊びが催されます。梅や沈の香を調合した薫物を持ち寄り、その香りを競ひ合ふのでございます。蛍兵部卿宮、柏木、夕霧、そして源氏自身が手づから調合した薫物を提出し、名人・源氏の君の審判のもとで優劣を競ひます。
この春、明石の姫君の入内がいよいよ近づいてをります。源氏は実の子と変はらぬ愛情で育ててきた姫君の旅立ちを控へ、すべての準備に細心の注意を払ひます。姫君の調度品、装束、随従する女房たちの選定――源氏の美意識と父心が一体となった準備でございます。
一方、玉鬘はすでに髭黒のもとで子を産み、宮廷への出仕も決まりました。六条院にゐたころの波乱が嘘のやうに、玉鬘は今や落ち着いた婦人として歩み始めてをります。
梅の花の香りが春風に乗って六条院に満ち、それはまるで、これからはじまる輝かしい時代を寿ぐかのやうでございました。
登場人物
光源氏(ひかるげんじ)
薫物合わせの審判役にして最高の調合師。明石の姫君の入内準備に全力を注ぐ父の顔も見せる。六条院の栄華はこの帖で頂点に達してをる。
明石の姫君(あかしのひめぎみ)
源氏と紫の上に慈しんで育てられた少女。冷泉帝への入内を前に、優雅で聡明な姫として仕上がってゐる。実母・明石の御方との再会もこの準備の中にある。
明石の御方(あかしのおんかた)
娘を紫の上に委ねた深い決断から年月が経ち、今や娘の輝かしい入内を遠くから見守る。知性と誇りを持ちながら、母の寂しさも抱へ続ける。
梅枝の歌 ── 春ごとに
明石の姫君の入内を前に、源氏は感慨深く歌を詠みます。
あひみん事はいつを待つべき
「毎年春ごとに花の盛りは訪れるが、(このやうに大切な人と)逢へる時はいつを待てばよいのだらうか」――華やかな入内の準備の裏に、やがて姫君が遠くへ行ってしまふことへの親心が滲みます。花の盛りは繰り返し来ても、人との縁はかくも一期のものでございます。
物語の意義 ── 栄華の絶頂
「梅枝」は源氏物語第一部の終盤、源氏の栄華の最高点を描く帖でございます。薫物合わせに示される雅な文化の極致と、姫君の入内準備に示される政治的成功とが重なります。
しかし花は必ず散ります。次の帖「藤裏葉」で源氏の栄華は形式的な頂点に達しますが、その先に待つのは――。春の梅の香は、夏の嵐を知りません。
『源氏物語』第三十二帖「梅枝」
── 紫式部 謹んで記す