源氏物語

須磨(すま)

いとゞしく過ぎゆく方の恋しきに
うらやましくも帰る波かな

あらすじ

都における光源氏の栄華は、ひとつの過ちによって翳り始めます。朧月夜の君(おぼろづきよのきみ)との密かな逢瀬が、政敵・右大臣家に露顕してしまひました。右大臣の怒りは激しく、源氏を陥れようとする動きが宮中に広がります。源氏の君は愛する紫の上はじめ多くの人々と別れを告げ、みづから須磨への退去を決意されます。

須磨は都から遠く離れた播磨の国の海浜。古来から歌枕としても知られる侘しき地で、源氏の君は粗末な仮の宿に身を置き、磯に打ち寄せる波の音と潮風のなかで月日を送られます。都に遺してきた紫の上や友人たちとの文のやりとりだけが心の支へでした。

やがて秋も深まるころ、突如として激しい嵐が須磨を襲ひます。海は荒れ狂ひ、雷鳴と稲妻が夜を裂きます。その嵐の夜の夢に、亡き桐壺帝の御霊が現れ、源氏に明石の地へ渡るよう告げます。この神夢が、源氏の運命を再び動かし始める端緒となるのです。

登場人物

光源氏(ひかるげんじ)

栄華の頂点から一転して流謫の身となる。いかに才気に恵まれた君とて、孤独と喪失の痛みは覆ひやうもない。秋の月を眺め、波の音を聞きながら、失はれた日々と都の人々を思ひ続ける。

紫の上(むらさきのうえ)

都に遺された、源氏の最愛の女人。源氏との突然の別離に心細く嘆き暮れながらも、文を交はして心を通はせる。遠く離れてゐるほどに、ふたりの絆の深さが際立つ。

朧月夜の君(おぼろづきよのきみ)

源氏の流謫の発端となった女人。右大臣の六の君にして、弘徽殿の女御の妹。みづからも源氏への想ひを断ちきれず、この恋の結末を深く悲しむ。

花散里(はなちるさと)

源氏の愛人のひとり。華やかさはないが、誠実で温かみのある女人。須磨の源氏へ心温まる文を送り、離れながらも変はらぬ情を示す。

須磨の月夜 ── 波と涙の歌

秋の須磨の夜、冷たい月の光が海面を銀色に照らします。源氏の君は波の音を耳にしながら、都のことを想ひ、筆をとります。

いとゞしく 過ぎゆく方の 恋しきに
うらやましくも 帰る波かな

「須磨の浜から都の方角を見やれば、ただ恋しさばかりが募ってならぬ。波よ、おまへは都へ帰ることができるのか、まことに羨ましいことよ」――遠流の身の切なさが、寄せては返す波の動きと重なり合ふ一首でございます。帰れぬ都への望郷の念が、波の白さの向こうに滲んで見えます。

嵐の夜 ── 神の御告げ

秋から冬へと季節が移るころ、突然の大嵐が須磨を呑み込みます。稲妻が空を裂き、高波が岸を叩き、源氏の仮の宿も揺れに揺れます。この世の終はりかと思はれるほどの荒れ模様の中、源氏の君は夢の中に亡き桐壺帝の面影を見ます。

帝は「海の底へ来い」と告げるのではなく、明石の地へ渡るよう静かに示します。この神夢が、源氏の再起への第一歩となります。満ちれば欠けるは月の理――失墜の底にあってこそ、次の光がやってくるのです。

物語の意義 ── 転落と再生の詩

「須磨」の帖は、源氏物語における最大の転換点にございます。帝の寵愛を受け、六条院の栄華を極めんとしてゐた源氏の君が、初めて「喪失」と「孤独」の真の意味を体験する章です。

わたくしは源氏の君を、あへてこの流謫の地に置きました。苦しみを知らぬ者に、真の深みは宿らないと思ったからです。須磨の海風に吹かれ、波の音に耳を澄ませた日々が、のちの源氏の君の人格の底を作ることになります。

また、この帖は次の明石の帖と深く結びついてをります。嵐の夜の神夢をきっかけとして、源氏は明石入道と出会ひ、明石の御方との縁が結ばれます。その縁から生まれる明石の中宮は、のちに皇后として物語の光となります。流謫の苦しみは、さらに大きな実りへの種蒔きでもあったのです。


『源氏物語』第十二帖「須磨」
── 紫式部 謹んで記す