源氏物語

花散里(はなちるさと)

土佐光信「花散里」源氏物語絵アルバム第11帖、ハーバード美術館所蔵(1509-1510年)
橘の香をなつかしみほととぎす
花散る里を訪ねてぞ来し

あらすじ

短い帖です。しかし短いながら、わたくしが最も大切にした帖のひとつかもしれません。

政情が不安定になり、心の落ち着かない源氏が、夜の帳の中をひそかに訪れる女性がゐます。花散里(はなちるさと)の君です。亡き麗景殿女御の妹で、華やかさとは縁遠い、地味で控えめな女性。しかし源氏は彼女のもとを変はらず訪ひ続けます。

橘の香りが漂ふ夏の夜、源氏と花散里は静かに言葉を交はします。派手な愛の語らひではなく、ただそこにある温かさ。花散里の君は源氏に寄り掛かるでも甘へるでもなく、ただ穏やかに、変はらずにそこにゐます。

この帖は、源氏物語の中で最も「静かな愛」を描いてをります。

「花散里」── 橘の香と夏の夜

「花散里」とはもとは邸の名で、橘の花が散る里、の意味です。橘は古来「懐かしい人の袖の香り」を連想させる花として知られてをります。

橘の 香をなつかしみ ほととぎす
花散る里を 訪ねてぞ来し

源氏が花散里へ贈った歌。「橘の香が懐かしく、ほととぎすが鳴く花散る里を訪ねてきた」――あなたのもとに来ずにはゐられなかった、という素直な思ひ。飾りのない言葉が、この帖の本質を表してをります。

登場人物

花散里(はなちるさと)の君

麗景殿女御の妹。容貌も才気も際立つわけではないが、穏やかで誠実な性格の持ち主。源氏が六条院を造営した際には、その一角に居を構え、のちに源氏の息子・夕霧の養育を担ふ。源氏物語のなかで最も「信頼」を体現する女性。

派手さのない愛の深さ

源氏は生涯を通じて数多くの女性を愛しましたが、花散里ほど静かで安定した関係を築いた女性はをりません。恋の炎ではなく、灯火のやうな温もり。嵐ではなく、穏やかな風。

わたくしは、この帖を短くしたことに理由があります。静かな愛には、多くの言葉は要らないのです。ただそこにある、変はらぬ温もりを、短い筆で写し取りたかった。

源氏物語を読むとき、人はしばしば藤壺の宮や紫の上に心を奪はれます。しかしわたくしは、花散里のやうな女性にこそ、人の世の本当の温かさを感じます。


『源氏物語』第十一帖「花散里」
── 紫式部 謹んで記す