あらすじ
「篝火」は源氏物語五十四帖のうち、最も短い帖でございます。夏の終はりの夜、六条院の庭に篝火が焚かれてをります。源氏の君と玉鬘が、その炎を眺めながら静かに語り合ひます。
篝火の明かりに照らされた玉鬘の横顔は、いっそう美しく輝いてをります。源氏の君は、養父としての境界線をかろうじて保ちながら、しかし心の内では火の煙のやうに揺れる思ひを止めることができません。
この帖には大きな事件もなく、長い対話もございません。ただ、夜と火と、ふたりの沈黙と。その短さゆゑに、かへって源氏の心情の複雑さが際立ちます。炎が燃え、煙が立ちのぼり、やがて消えてゆく――それがそのまま源氏の恋のかたちのやうでございます。
登場人物
光源氏(ひかるげんじ)
篝火の傍らで玉鬘の美しさに心乱れる。「世にしたがはぬほのほ」と詠んだやうに、この感情は理性では制しきれぬと自覚してゐる。
玉鬘(たまかずら)
篝火に照らされ、その美しさが際立つ夜。源氏の眼差しをどこか感じながら、淑やかに座ってゐる。
篝火の歌 ── 制しきれぬ炎
篝火の揺れる光の中で、源氏の君はひとり静かに歌を詠みました。
世にしたがはぬほのほなりけれ
「篝火に混じって立ちのぼる恋の煙は、この世の道理に従はぬ炎であることよ」――養父として守るべき礼節を「世の道理」と自覚しながら、それでも燃え続ける感情を「世にしたがはぬほのほ」と詠みます。
源氏は自分の気持ちを否定するでも肯定するでもなく、ただ歌として炎とともに夜空へ放ちます。この潔さと諦めが混じり合った一首に、源氏の知性と業(ごう)の深さが凝縮されてをります。
物語の意義 ── 短さの雄弁
なぜ紫式部はこれほど短い帖を書いたのでせうか。長い帖の間に差し挟まれた、この息継ぎのやうな短章は、源氏の内なる煩悶が言葉にならないことを、逆説的に示してゐるのかもしれません。
篝火は夜を照らしますが、やがて燃え尽きます。源氏の玉鬘への想ひも、このまま消えてゆくのか、それとも――次の帖が静かに語り継ぎます。
『源氏物語』第二十七帖「篝火」
── 紫式部 謹んで記す