源氏物語

初音(はつね)

土佐光信「初音」源氏物語絵アルバム第23帖、アーサー・M・サックラー美術館所蔵(1509-1510年)
年ふれど心はかへさぬ鶯の
旧巣忘れぬ声をきかせよ

あらすじ

正月の朝、六条院に新年の光が満ちてをります。「初音」とは鶯の初鳴きのこと。冬ごもりの鶯がはじめて声を上げる瞬間は、春の到来を告げる喜びの音でございます。

源氏の君は元日に六条院の各御殿を巡ります。春の御殿には紫の上、夏の御殿には花散里、そして秋好む中宮のもとへも、玉鬘のもとへも顔を見せます。それぞれの御殿で歌が交はされ、六条院の豊かさと賑はひが春の光の中に広がってゆきます。

明石の御方は、今は六条院から離れて暮らしてをります。引き取られた娘(明石の姫君)への想ひは断ちがたく、新年の手紙に「鶯の初音」を詠み込んで送ります。娘の声を聞きたい、ただそれだけの母の願ひが、短い歌の中に込められてをります。

玉鬘にとっては、六条院で迎へる初めての新年でございます。多くの求婚者の視線が集まりつつあることも知らず(いや、薄々感じながら)、春の光の中で胸を踊らせてをります。

この帖は、大きな事件のない、春の静かな小品のやうな帖でございます。しかしだからこそ、各女性の個性と心の内が、短い歌のやりとりの中に鮮やかに浮かびあがります。

登場人物

紫の上(むらさきのうえ)

春の御殿の女主人として、元日に源氏を迎へる。新年の歌に変はらぬ愛の誓ひを込め、源氏の最も信頼する伴侶として輝く。朝顔の帖での不安が嘘のやうに、この帖では堂々たる存在感を放つ。

花散里(はなちるさと)

夏の御殿で源氏を温かく迎へる。派手さはないが、穏やかで誠実な人柄がじんはりと伝はる。夕霧の養育も担ひ、六条院の縁の下の力持ちとして描かれる。

明石の御方(あかしのおんかた)

離れて暮らす娘への想ひを新年の歌に込める。娘の「初音」を聞きたいという母の願ひが切なく、しかし矜持を持って静かに耐へる姿が美しい。

秋好む中宮(あきこのむちゅうぐう)

中宮の位につき、安定した立場から新年を祝ふ。春の歌の返しに秋の心を漂はせるなど、その名の通り秋を好む風雅な中宮ぶりが窺へる。

玉鬘(たまかずら)

六条院の新参者として初めての正月を迎へる。まだ右も左も分からないやうでいて、その美しさと聡明さは既に周囲の目を集めはじめてゐる。

変はらぬ心 ── 紫の上の歌

元日の朝、源氏の君が春の御殿に現れると、紫の上は清らかな装ひで迎へます。ふたりは新年の歌を詠み交はしました。

年ふれど心はかへさぬ鶯の
旧巣忘れぬ声をきかせよ

「年が重なっても心は変はらぬ鶯のやうに、古い巣を忘れずにゐる声を聞かせてください」――紫の上の歌でございます。鶯は毎年同じ巣に帰ってくるといはれます。「変はらぬ心で、あなたのもとに帰ってきてください」という、素直な愛の言葉でございます。前年の雪の夜に感じた不安を乗り越えた紫の上が、新しい年の始まりに愛を確かめ合ふ、晴れやかな一首でございます。

物語の意義 ── 六条院の春

「初音」の帖は、六条院の豊かさを歌の交響楽として描きます。ひとつの大きな屋敷の中で、季節に合はせた御殿に、それぞれの個性を持つ女性たちが暮らしてをります。それぞれが違ふ想ひを抱へながら、新年の朝に歌を詠む。

大きな事件はなく、悲劇もありません。ただ春の光の中で命が輝いてをります。わたくしはこのやうな帖を書くとき、源氏物語が単なる恋の物語ではなく、「生きることの豊かさ」を描く物語であると感じます。


『源氏物語』第二十三帖「初音」
── 紫式部 謹んで記す