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式部日記

春はあけぼの ─ 山際の曙に筆を置きて

曙色の空にたなびく紫雲と山際の風景
春はあけぼの
やうやう白くなりゆく
山際すこし明かりて
紫だちたる雲の
細くたなびきたる

夜もすがら源氏の君の物語を綴りて、ふと気づけば硯の墨も乾きかけてをりぬ。御灯の火もいと頼りなげに揺れて、あたりはしんと静まり返りたり。

何とはなしに御簾を押し上げて外を見れば、東の空がやうやう白くなりゆく。山際に少し明かりて、紫だちたる雲の細くたなびきたるは、まことに言ふよしなき趣なり。

曙の紫雲

春の曙ほど心動かさるるものはあらじ。冬の間、凍てつく夜空に星ばかり冴え返りたりしが、如月に入りてよりこのかた、朝ごとの空の色の移ろひに、春の近づくを覚ゆ。

あの紫だちたる雲を見るにつけ、源氏の物語の中の若紫の君を思ひ出でぬ。北山の寺にて初めて垣間見たまひし折の、あの幼き姫君の面影が、この曙の雲に重なりて見ゆるは、不思議なる心地なり。

物語と現世のあはひ

物語の中にては、光る君が若紫を見出だしたまふは春の日のことなりき。されば春の曙に筆を執ることの多きも、ゆゑなきことにはあらず。この紫の雲の色こそ、物語の道しるべにて、わが筆を導きたまふものなれ。

硯に水を足し、墨を磨りなほして、また物語の続きに向かはむとすれど、なほ名残惜しくて、もう一度だけ、山際の空を仰ぎ見る。雲はますます紫に染まりて、やがて曙の光に溶けゆかむとす。

春を待つ心

如月の風はなほ冷たけれど、梅の蕾のほころびかけたるを昨日見たり。もう間もなく、あの花の香りが御所のあちこちに漂ひ始めむ。さすれば鶯も初音を聞かせて、いよいよ春めきたる日々となりぬべし。

されど今宵は、この曙の美しさを胸に収めて、また物語の世界へと帰りゆかむ。源氏の君もまた、かかる曙の空を眺めたまひしことぞあらむ。物語を綴るわたくしと、物語の中の人々と、同じ空の下にありて、同じ曙を仰ぎ見る ── そのことの不思議さよ。

さて、墨の香りとともに、また筆を走らせむ。