中宮彰子さまに漢籍をお教へ申し上げることとなりぬ。道長さまより密かにお命じくださったることにて、わたくしはひそかに恐縮し、またひそかに喜びてをりぬ。
白居易の詩を、わたくしはまず声に出してお読みし、中宮さまがそれをお聞きになるといふ形で始めぬ。中宮さまは最初こそ御遠慮がちにておはしましたが、詩の意味をひとつひとつお話し申し上げるうち、御目が少しずつ輝きを帯びてきたるやうに見えぬ。
かかる高貴な御方が、文字を学びたいと願はれること、わたくしには深く感ずるところありぬ。女は学問を隠すのが習ひのこの世に、中宮さまはその垣根をすこし越えてみたいとのぞんでをられるのかと思ひて、わたくしの胸のあたりがあたたかくなりぬ。
されどこの御教授のことは、他言無用にとのことにて、わたくしはひたすら口をつぐみてをりぬ。女が漢籍を読むとなれば、また何事か言はれると知ってをるゆゑ。「日本紀の御局」と揶揄されしわたくしが、中宮さまにそれをお教へ申し上げてをるとは、何といふ皮肉にして、何といふ僥倖かと思ひぬ。
灯の光のもとで白楽天の詩句が音になるとき、部屋の外では春の雨が静かに降り始めてをりぬ。かかる夜のことをわたくしは美しいと思ひ、また、美しいと思へる自分をやや恥づかしいと思ひぬ。