源氏物語

常夏(とこなつ)

土佐光信「常夏」源氏物語絵アルバム第26帖、ハーバード美術館所蔵(1509-1510年)
風吹けばまづぞ乱るる色かはる
浅茅が露の消えやすきかな

あらすじ

六条院の夏、源氏の君の六条院は涼やかな風に揺れる緑に包まれてをります。この帖の主役は玉鬘でございます。内大臣(かつての頭中将)の御子息たちをはじめ、蛍兵部卿宮、源中納言など、次々と優雅な恋文が届きます。

一方、内大臣には別の娘がをりました。近江の君といふ女性で、突如として大臣邸に引き取られたのですが、その言動の粗野なこと、品のないこと――宮廷に慣れた人々の目には何とも恥ずかしく映りました。近江の君の騒々しい存在は、玉鬘の気品の高さをいっそう際立たせます。

源氏の君は玉鬘に「常夏の花」――撫子を贈りながら、養父としての限度を超えた甘い感情を持て余してをります。撫子はかつて亡き夕顔を「常夏の花」と呼んだ源氏の思ひ出とも重なります。実の父・内大臣と、養父・源氏との間で、玉鬘の運命はまだ定まらぬまま夏が過ぎてゆきます。

登場人物

玉鬘(たまかずら)

夕顔の遺した忘れ形見。六条院に引き取られ、才色兼備の姫君として男君たちの憧れの的となる。内大臣(実父)には引き取られず、複雑な境遇に置かれてゐる。

光源氏(ひかるげんじ)

養女として玉鬘を手厚く保護しながら、その美しさに養父としての分を越えた感情を覚える。撫子を贈る場面に、源氏の矛盾した心情が滲む。

近江の君(おうみのきみ)

内大臣が新たに引き取った娘。宮廷の礼儀を知らず、その言動が笑ひを誘ふ。玉鬘の対照として描かれ、「育ちの大切さ」を示す存在。

内大臣(うちだいじん)

かつての頭中将。近江の君を引き取ったことで貴族社会で物笑ひの種に。玉鬘が実の娘と知らぬまま、世間を渡る。

常夏の歌 ── 夏の恋情

常夏(撫子)の花が風に揺れる庭で、源氏の君は玉鬘に歌を贈りました。

風吹けばまづぞ乱るる色かはる
浅茅が露の消えやすきかな

「風が吹けばまっ先に乱れる浅茅の露のやうに、儚く消えやすいこの気持ちよ」――源氏の玉鬘への想ひを、風に揺れる露に喩へた一首でございます。養父として制御しようとしながら、それでも溢れる感情が雅な歌のかたちで表れてをります。

物語の意義 ── 夏の浮力

「常夏」は玉鬘の物語の中でも明るく軽やかな帖でございます。恋文が飛び交ひ、近江の君が笑ひを提供し、夏の六条院は賑やかでございます。しかし、その賑やかさの裏に、玉鬘の宙ぶらりんな状況がひっそりと横たはってをります。

紫式部は笑ひと哀しみを同時に描く稀有な才能をお持ちです。近江の君の場面は滑稽でありながら、「生まれながらの身分がすべてを決める」平安社会の残酷さを映してもをります。


『源氏物語』第二十六帖「常夏」
── 紫式部 謹んで記す