源氏物語

少女(おとめ)

土佐光信「少女」源氏物語絵アルバム第21帖、アーサー・M・サックラー美術館所蔵(1509-1510年)
少女子があたりと思へば夏草の
露のしげくもぬれにけるかな

あらすじ

冷泉帝の御代が始まり、源氏の君は准太上天皇に准ぜられ、権勢の頂点に立たれます。六条院はいよいよ輝き、その豪華絢爛な生活ぶりは都の話題をさらひ続けます。源氏の君の宿敵にして親友でもある内大臣(かつての頭中将)もまた大臣として栄えてをり、ふたりの競ひ合ひが都の文化を彩ります。

この帖の主役は、源氏の嫡男・夕霧でございます。夕霧が元服を迎へますが、源氏の君は厳格な教育方針から、あへて六位からのスタートを命じます。「高い地位から始めれば驕りが生まれる。苦労して上がってこそ真の公達になれる」――その言葉は筋が通ってをりますが、当の夕霧にとっては辛いことでございます。

何より切ないのは、幼馴染みの雲居雁(内大臣の娘)との恋が引き裂かれることでした。六位の夕霧と大臣の娘では身分が釣り合はぬと、内大臣が娘を遠ざけてしまひます。雲居雁の部屋から聞こえてきた彼女の泣き声を、夕霧は廊下の外で聞くばかり。その不憫さに、読む者ももらひ泣きするやうな場面でございます。

内大臣には、筑紫から連れ帰った隠し子・近江の君もゐます。この近江の君が豪快で無邪気すぎるほどの存在感を放つことで、帖に笑ひの彩りが加はります。深刻な恋の悩みのそばに、少し滑稽な一面が添へられるのが源氏物語の妙でございます。

登場人物

夕霧(ゆうぎり)

源氏の嫡男にして、この帖の主役。誠実で真面目な青年で、六位の不遇にも腐らず大学寮に通ふ。雲居雁への一途な恋心を抱きながら、ひたすら学問と出世への道を歩む。源氏の格好よさとは異なる、泥臭い努力の美しさを持つ人物。

雲居雁(くもいのかり)

内大臣の娘にして夕霧の幼馴染み。ふたりは幼い頃から心を通はせてゐたが、身分の差を理由に引き離される。父に遠ざけられながら、夕霧への想ひを断ちきれずにをり、その涙が帖の切なさを深める。

内大臣(ないだいじん)

元頭中将。源氏と張り合ひながらも心の底では友情を持つ。娘の恋を引き裂きながら、一方で隠し子・近江の君の扱ひに慌てふためくなど、人間的な面白さを持つ人物。

近江の君(おうみのきみ)

内大臣の隠し子。筑紫育ちで大らかすぎる言動が宮廷の品格とはかけ離れてをり、周囲を困惑させる。しかし悪意はなく天真爛漫。この帖に笑ひを持ち込む貴重な存在。

光源氏(ひかるげんじ)

太政大臣として六条院に君臨。夕霧への厳格な教育は親心からだが、息子の恋の苦労には少し知らぬふりをしてゐるやうにも見える。

六位の涙 ── 夕霧の歌

夕霧は大学寮の帰り道、雲居雁がかつてゐた場所のそばを通ります。あの子と一緒に遊んだ庭、聞こえてきた笑ひ声――そのすべてが今や遠いものとなりました。

少女子があたりと思へば夏草の
露のしげくもぬれにけるかな

「あの子がゐた辺りだと思ふと、夏草の露のやうにしきりと涙が滴ってしまふ」――夕霧の一首でございます。六位の布の袍を着た若い公達が、人知れず涙を拭ふ。その姿に、源氏の優雅な恋とはまた違ふ、初恋の痛みが滲みてをります。

物語の意義 ── 苦労することの価値

「少女」の帖は、親の厳しさと子の苦労をめぐる物語でございます。源氏の君の「六位から始めよ」といふ命は、息子への真の愛情から来てゐます。しかし当の夕霧には、その愛情が分かるまでに長い時間が必要でした。

苦労してこそ人は育つ。恋に泣いてこそ、人の心の深さが分かる。六条院の華やかさの中で、まだ六位の袍をまとつた若者の涙が、この帖を単なる栄華譚から人間の物語へと引き戻してをります。


『源氏物語』第二十一帖「少女」
── 紫式部 謹んで記す