源氏物語

明石(あかし)

土佐光信「明石」源氏物語絵アルバム第13帖、ハーバード美術館所蔵(1509-1510年)
いづ方に思ひみだれんはてもなく
かすむ霞のたつたの山か

あらすじ

須磨での孤独な月日を送る光源氏のもとに、夢で亡き父・桐壺院が現れ、「住吉の神の導きに従ふやうに」と告げます。やがて嵐が訪れ、その嵐の中で明石入道(あかしのにゅうどう)の使ひが船でやって来ます。源氏はその誘ひに従ひ、須磨を離れて明石の浦へと移ります。

明石入道は、もとは国守を務めた人物で、都を離れてひとり娘を育てながら独特の風雅な暮らしをしてをりました。その娘こそ「明石の君」。源氏はその琴の音と才気に心を引かれ、やがて深い仲となります。

都では政変が起き、源氏の帰還を望む空気が高まります。源氏の都帰還が決まったとき、明石の君は身ごもってをりました。別れの悲しみを胸に、源氏は浦を去ります。この別れが、長き物語の縦糸となるのです。

明石の浦の風景

明石の浦は、当時の人々にとって都から遠く離れた「辺境の地」でした。しかしそこには、都にはない豊かな自然と、人の世の喧噪を離れた静寂がありました。源氏はこの地で、失意と孤独の中に、思ひがけぬ美しい出会ひを得ます。

いづ方に 思ひみだれん はてもなく
かすむ霞の たつたの山か

別れの際、源氏と明石の君が交はした歌のひとつ。「どちらへ思ひを乱せばよいのか、果てもなく霞む龍田山のやうに――」。別れの哀しみが、春の霞のやうにたちこめてをります。

登場人物

明石の君(あかしのきみ)

明石入道の一人娘。身分は決して高くないものの、琴の名手で、教養深く気品ある女性。源氏との間に女の子をもうけ、その娘はのちに入内して皇后となる。源氏物語における「地方の女性の誇り」を体現する存在。

明石入道(あかしのにゅうどう)

娘をいつか高貴な人の妻にしようと長年祈り続けてゐた父。源氏の来訪を天の導きと信じ、娘と源氏の仲を積極的に取り持つ。その信念と愛情が、物語に奥行きをあたへる。

宿命の出会ひ

わたくしは、この帖を書きながら、人の縁といふものの不思議さを改めて感じました。流謫の身となった源氏が、遠い浦辺で出会ふとは思ひもかけなかった女性。その出会ひは偶然ではなく、亡き父の夢の中の言葉、住吉の神の導き、すべてが繋がってをります。

明石の君との間に生まれた娘が、やがて国母となる。その壮大な運命の萌芽がここに宿っているのです。


『源氏物語』第十三帖「明石」
── 紫式部 謹んで記す