源氏物語

柏木(かしわぎ)

源氏物語絵巻 柏木 ─ 徳川美術館蔵(12世紀)
もの思ふと過ぐる月日も知らぬ間に
年もわが世も今や尽きぬる

あらすじ

光源氏四十歳を過ぎた頃。長年にわたる繁栄の頂点にあった源氏の君のもとに、ひとつの暗い影が落ちてきます。それは、頭中将の息子にして源氏の君の養女・玉鬘にも求婚したことのある青年、柏木衛門督(かしわぎえもんのかみ)の犯した一つの過ちから始まりました。

蹴鞠(けまり)の宴のざわめきの中、几帳の隙間から偶然に覗き見てしまった女三の宮(おんなさんのみや)。帝の皇女にして、源氏の正妻として六条院に迎へられたばかりのその姫君に、柏木は瞬く間に深く心を奪はれてしまひます。

身分の差は歴然でした。されど恋の業火は理性の壁をたやすく焼き尽くし、柏木はついに禁忌を犯します。その結果、女三の宮は懐妊。生まれた子は薫(かをる)と名付けられ、誰もが源氏の子と信じましたが、源氏の君だけが真実に気づいてをりました。

源氏に知られたことを察した柏木は、恐怖と悔恨に打ちひしがれ、日を追って衰弱してゆきます。春の訪れを待たずして、柏木は若くして息絶えました。業の深き恋が、己の命を燃やし尽くしてしまったのです。

登場人物

柏木衛門督(かしわぎえもんのかみ)

頭中将の息子にして、才気に満ちた貴公子。源氏の君に深く傾倒しつつも、その妻・女三の宮への叶はぬ恋に身を滅ぼす。誇り高く繊細な魂の持ち主。この帖の中心を担ふ悲劇の青年。

女三の宮(おんなさんのみや)

朱雀院の皇女にして、源氏の正妻として六条院に降嫁する。若く世慣れぬ姫君で、源氏との間にある心の距離を埋めきれずにゐた。柏木の不義に加担してしまったことで、出家を決意する。

光源氏(ひかるげんじ)

この帖においては、かつて己が藤壺の宮と犯した禁忌の業を、鏡に映すやうに見せられる立場となる。表向きは穏やかに振る舞ひながら、心の奥に深い動揺を秘める。

薫(かをる)

この帖で誕生する赤子。源氏の子として育てられるが、実の父は柏木。生まれつき体から不思議な芳香を発することから「薫」と呼ばれ、のちに宇治十帖の主役となる。

蹴鞠の宴 ── 運命の一瞥

春の六条院、桜が散り始める頃。蹴鞠の宴に興じる若君たちの声が高らかに響くその日、猫が几帳を押しのけ、御簾の内の女三の宮の姿が一瞬、外の世界にさらされてしまひます。

柏木が見てしまったのは、ほんのひと目でございました。されどその一瞥が、彼の運命を変へてしまふ。桜の散るが如く、あえなき終はりへと向かって。

わたくしはこの場面を描きながら、源氏の君がかつて御父帝の后・藤壺の宮を見初めたその瞬間を重ね合はせてをりました。人が「見てはならぬもの」を見てしまふ瞬間の、あの取り返しのつかなさ。業(ごう)とはかやうに廻るものにございます。

辞世の歌 ── 燃え尽きた命

病の床に伏した柏木は、源氏の君のまなざしの意味を知り、この世への絶望を深めてゆきます。女三の宮への罪、源氏への畏れ、そして生まれてくる子を見届けることもできぬ無念。

もの思ふと 過ぐる月日も 知らぬ間に
年もわが世も 今や尽きぬる

恋に苦しみ、罪に苦しみ、その苦しみの中で時間の流れさへ忘れてゐるうちに、命が尽きてしまった。このひと言に、柏木の悲劇の全てが凝縮されてをります。

物語の意義 ── 業の連鎖と因果

「柏木」の帖は、源氏物語が単なる貴族の恋愛物語にとどまらず、「業」「因果」「無常」を深く問ふ文学であることを示す章にございます。

光源氏はかつて帝の后・藤壺の宮と密かに結ばれ、冷泉帝を産ませました。その罪は長年、源氏の心の底に沈んでをりました。そして今、柏木が源氏の妻・女三の宮と同じ過ちを犯した。

源氏はこの事実に直面したとき、怒りよりも先に、深い自責の念を覚へたはずです。己もまた、同じ罪を犯した者として――。わたくしは、人間の罪と赦しの問ひを、このふたりの男の間に静かに置きました。

柏木が逝き、薫が生まれ、物語は新たな世代へと続いていきます。業の連鎖は、個人の一生を越えて次の代へと引き継がれてゆくのです。


『源氏物語』第三十六帖「柏木」
── 紫式部 謹んで記す