彰子さまのそばに仕へてより、幾度かの季節が移りぬ。その御方の御心の深さのことを、わたくしは折にふれて思ふことにてさぶらふ。
中宮さまはとかく御言葉の少ない御方にてさぶらふ。女房たちの中には、中宮さまを御内気な御方と申す者もをりぬ。されどわたくしには、その御沈黙こそが御心の深さの表れに思はれぬ。言葉少なき御方は、たいていその分だけ深く物事を見てをられるものにて。
あるとき秋の夜、御所の廊にてふたりきりになることがありぬ。中宮さまはしばらく月を眺めてをられ、不意にわたくしの方を向いて「あなたの書くものを、もっと読みたい」とおっしゃいぬ。その御声のいかにも静かなること、されどその言葉の持つ重さのいかに大ききことか。
わたくしはそのとき、源氏の物語をお書きしてをりぬ。中宮さまがその草稿を御覧になり、続きを待ちわびてくださってをるとのことは、以前より伺ってをりぬ。されどその夜のお言葉は、单なる御注文といふより、もっと親しき何かを含んでをるやうに感じられぬ。
わたくしはただ「恐れ入りまする」とのみ申し上げぬ。されどそのとき心のうちで誓ひたることは、この御方のためならば、もっと良い物語を書かねばと。月が雲の間より出でて、廊を白く照らしぬ。その光の冷たくも美しきこと。