あらすじ
薫は宇治の山荘に隠棲する八宮(はちのみや)のもとへ、何度も足を運ぶやうになります。八宮は源氏の弟にあたる宮で、宮廷の栄達を退け、宇治の山荘で仏道に専心してをります。その清貧で高潔な生き方が、薫の心をつよく引きつけます。
八宮には大君(おほいきみ)と中の君(なかのきみ)というふたりの娘がをります。ふたりとも美しく聡明ですが、宇治の山奥で世間と隔絶した暮らしをしてをり、縁組の機会もないままに年を重ねてをります。薫はふたりの姉妹に対して、恋とも友情とも言ひがたい深い敬愛の念を抱きます。
また、匂宮も薫に連れられて宇治を訪れ、中の君の琴の音に心惹かれます。かうして宇治の姫君たちをめぐる、薫と匂宮の複雑な縁が結ばれてゆくのでございます。
椎の木は山中に深く根を張り、嵐にも動じません。薫と宇治の縁もまた、静かでありながら断ち切れぬ椎の根のやうでございます。
登場人物
薫(かをる)
宇治に繰り返し通ひながら、八宮の仏道への傾倒と、姉妹の姿への敬愛の間で自らの感情を整理しきれずにゐる。誠実で思慮深い青年の煩悶。
八宮(はちのみや)
宮廷の権力争ひを離れ、宇治で仏道に専心する高潔な隠遁者。薫の魂の師ともなり、「すべては無常」という宇治の物語の哲学的な基盤を提供する。
大君(おほいきみ)
沈思的で内省的な長女。薫の深い敬意を感じながらも、世俗の縁から身を引かうとする傾向がある。後の悲劇の予兆がすでにこの帖に漂ふ。
中の君(なかのきみ)
明るく素直な次女。琴の音が匂宮の心を捉へる。大君とは対照的な性格が、ふたつの愛の方向を生む。
椎本の歌 ── 近くにゐながら遠く
薫は宇治の山荘のそばまで来ながら、なかなか姫君たちに近づけない心情を歌にします。
すぎうかりけるつまき刈りかな
「橘の香るあたり(あなた方のゐる場所)を遠くから眺めながら、ただ通り過ぎてしまった柴刈り人(自分)であることよ」――薫は自らを山の柴刈り人に喩へ、芳しい姫君たちの傍らにゐながら踏み込めない自分の遠慮を詠みます。「橘の薫る」には薫自身の芳香との掛詞も感じられます。
物語の意義 ── 宇治の哲学
「椎本」は宇治十帖の基調を整へる帖でございます。世の無常を知る八宮、仏道と愛の間で揺れる薫、孤高の山荘に咲く姉妹の花。都の華やかな恋とは違ふ、宇治だけの静かで深い哀しみの世界がここに始まります。
『源氏物語』第四十六帖「椎本」
── 紫式部 謹んで記す