源氏物語

橋姫(はしひめ)

源氏物語絵巻 橋姫 ─ 五島美術館蔵(12世紀)
秋の夜の月も宇治川もかはらずて
いく世過ぎぬる浮木なるらん

あらすじ

光源氏が世を去り、その栄華が記憶の彼方へと遠ざかった後の物語。ここに「宇治十帖」が始まります。舞台は都から南へ離れた宇治の里――霧深く、川音の絶えぬ山里。

八の宮(はちのみや)は、光源氏の異母弟でありながら、政争に破れ不遇の境涯に生きる皇族でございます。愛する北の方を亡くし、世の無常を深く感じながら、仏道に帰依して宇治の山荘で隠遁の日々を送ってをります。

八の宮には、亡き妻との間に生まれた二人の姫君がをりました。大君(おほいきみ)と中の君(なかのきみ)。宇治の山荘にひっそりと育つこの姉妹は、深い悲しみの中にも清らかな気品を備へてをります。

光源氏の子・薫(かをる)は、八の宮に仏法の教へを請ふために宇治を訪れ、そこで大君の姿に心惹かれます。霧の中に揺れる宇治橋、月光に映える川面、そして謎めいた父宮と二人の姫君。薫の心に宇治の秋が深く刻み込まれていきます。

登場人物

薫(かをる)

光源氏の子として育てられた青年貴族。実父は柏木。生まれつき芳しい体香を放つことから「薫」と呼ばれる。誠実にして思慮深く、俗世の栄達よりも魂の真実を求める。宇治十帖の主役のひとり。

八の宮(はちのみや)

光源氏の異母弟。政争に敗れ、宇治に隠棲する不遇の王子。深い仏教への信仰と、亡き妻への哀惜を胸に、二人の娘の行く末を案じながら余生を送る。清廉にして哀愁ある人物。

大君(おほいきみ)

八の宮の長女。聡明にして誇り高く、父への深い孝心を持つ。俗世の幸福よりも亡き父への忠義を優先し、自らの恋を封じ込める。薫の心を捉へて放さぬ女性。

中の君(なかのきみ)

八の宮の次女。姉・大君に従ひ、宇治の山荘で静かに暮らす。のちに匂宮(においのみや)と結ばれ、都へ移ることになる。

宇治の情景 ── 霧と川音の世界

源氏物語の前半が、六条院の輝かしき光の世界であったとすれば、宇治十帖はその対極にある世界にございます。霧深く、川音絶えず、秋の色が濃く漂ふ宇治の山里。

橋姫(はしひめ)とは、宇治橋を守る女神の名。また、橋のたもとで夫の帰りを待ちわびる女のことをも指します。橋とは此の岸と彼の岸をつなぐもの、生と死の境界でもあります。

薫が宇治を訪れたある秋の夜、月光が宇治川に映え、橋の上には人影ひとつ。川の向こうに聞こえてくる琴の音――大君と中の君が父宮の留守中に奏でてゐたのです。薫はその音色に心を打たれ、物陰に立ち尽くします。

秋の夜の月も宇治川もかはらずて
いく世過ぎぬる浮木なるらん

八の宮が詠んだこの歌には、変はらぬ自然と漂ひ続ける人の心の対比が込められてをります。月も川もいつも変はらず美しいのに、己の魂はどこへ流れゆくかも知れぬ浮き木のやうな――不安と諦念が入り混じった、八の宮の晩年の心境にございます。

物語の意義 ── 新たな世代の孤独

「橋姫」の帖は、光源氏という太陽が沈んだ後の世界を描く宇治十帖の入り口にございます。前半の物語が「光」と「華やかさ」に満ちてゐたとすれば、宇治十帖は「影」と「孤独」と「無常」の物語。

薫もまた、心の奥に深い孤独を抱へた青年です。生まれの秘密(実父が柏木であること)を何となく感じながら、それを問ひただすこともできず、俗世の幸福にも乗り切れない。八の宮の仏法の教へは、かやうな薫の魂に深く響きました。

宇治川は源氏の都から切り離された世界の象徴。そして橋姫の伝説は、愛する人を待ち続ける女の孤独の象徴。この帖から始まる宇治十帖は、源氏物語全体の中でも、特に人間の孤独と無常を深く掘り下げた章群にございます。

わたくしは宇治十帖を書くとき、源氏の時代の輝きとは異なる、より沈んだ、されど深い美しさを追ひ求めました。霧の中に揺れる灯火のやうな、かそけき美しさを。


『源氏物語』第四十五帖「橋姫」── 宇治十帖の幕開け
── 紫式部 謹んで記す