あらすじ
光源氏はすでにこの世を去りました。源氏物語は第三部へと入り、次の世代の物語が幕を開けます。この帖は「宇治十帖」の序章として、ふたりの若い貴公子を紹介します。
ひとりは薫(かをる)。表向きは源氏の孫・夕霧の甥として育ちましたが、実は女三の宮と柏木の秘密の子でございます。薫はその出生の秘密を薄々感じながら、生来の誠実さと、どこか世の無常を見通すやうな沈思的な性格を持ちます。薫の最大の特徴は、その身体から不思議な芳香が漂ふことでございます。誰かが匂ひを移したのではなく、体そのものから薫るその香りが、薫の名の由来でもございます。
もうひとりは匂宮(においのみや)。冷泉院の御子にして、今上帝の孫にあたる親王でございます。こちらは意識的に衣に薫物を焚き込み、薫に対抗するやうに自らを芳しく装ひます。美貌と多情で知られ、女人たちを惹きつけてやまない、源氏に似た輝きを持ちます。
香りの薫と、美貌の匂宮。ふたつの「匂ひ」をめぐる若者の物語が、宇治の山荘を舞台にはじまらうとしてをります。
登場人物
薫(かをる)
出生の秘密を抱へる誠実な青年。身体から芳香が漂ふ稀有な存在。人生と愛の真実を求めながら、どこか満たされぬ孤独を抱へてゐる。宇治十帖の主人公のひとり。
匂宮(においのみや)
美貌と多情で知られる皇子。薫と対照的な性格を持ちながら、深い友情で結ばれてゐる。薫への対抗心と、率直な愛情欲求が物語を動かす。
匂宮の歌 ── 秋の寂しさ
薫が宇治の八宮の山荘の静かさを語る文脈で、人里離れた秋の寂しさが詠まれます。
人こそ見えね秋は来にけり
「八重に茂る葎の宿の寂しさに、人の姿は見えないけれど、確かに秋は来ている」――これは古今集の歌を踏まへながら、宇治の山荘の秋の孤高を詠みます。人は来なくとも、秋は必ずやって来る。その確かさと、しかし人の不在との対比が、宇治の物語の基調音でございます。
物語の意義 ── 継承と変容
「匂宮」は源氏物語が新しい世代へと受け継がれる瞬間でございます。光源氏のやうな圧倒的な存在感は薄れ、代はりにより屈折した、より人間的な等身大の若者たちが登場します。
薫の「香り」と匂宮の「匂ひ」。ふたつの芳香は宇治の風に乗って、かつてない深みへと物語を連れてゆきます。
『源氏物語』第四十二帖「匂宮」
── 紫式部 謹んで記す