あらすじ
須磨・明石での数年の流謫を経て、光源氏はついに都への帰還を果たします。冷泉帝の即位と朱雀院の譲位によって時代は変はり、源氏の復権は一気に進みます。内大臣の地位に就いた源氏の君の周囲には、ふたたび栄華の光が満ちてきます。
都に戻った源氏の君は、明石に遺してきた明石の御方が男の子ではなく姫君をお産みになったことを知ります。その姫のことが案じられて止みませんでしたが、すぐには迎へに行くことも叶ひません。明石の御方は都に近い大堰(おほゐ)への移住を入道に勧められ、じっと源氏の訪れを待ちます。
やがて源氏の君は住吉の神への御礼詣でに赴きます。ところが折悪しく、明石の御方も同じ日に住吉詣でをしてをりました。入り江に浮かんだ豪華な源氏の御一行の舟を遠目に見た明石の御方は、身分の差の歴然たることに胸を痛め、みづからの舟を引き返させてしまひます。
一方で六条御息所の遺した娘・梅壺の女御(のちの秋好中宮)が斎宮から帰京し、源氏の後見を受けて冷泉帝のもとに入内します。源氏はこの養女の将来に心を砕きながら、かつての御息所への追憶をも胸に抱いてゐます。
登場人物
光源氏(ひかるげんじ)
都に帰還し、内大臣として政治の中枢に返り咲く。しかし心の底には明石の御方と幼い姫への想ひが揺れ続け、栄華の中にあっても内なる静けさを持ち続けてゐる。
明石の御方(あかしのおんかた)
姫君を産み、源氏の帰還を待ちわびる女人。住吉での出会ひを自ら断ち切った奥ゆかしさの中に、身分の差への深い悲しみが滲む。高い矜持と哀れさを兼ね備へた、物語きっての知的な女人。
冷泉帝(れいぜいてい)
即位した新帝。源氏と藤壺の御方の間に生まれた秘密の御子であり、その出生の秘密が物語の深層に影を落とす。聡明にして感受性豊か。
梅壺の女御・秋好中宮(うめつぼのにょうご)
六条御息所の遺した娘。斎宮を退いて帰京し、源氏の後見のもと冷泉帝に入内する。亡き母の面影を持ちながら、やがて后として宮中に輝く存在となる。
住吉の岸 ── すれ違ひの歌
波静かな入り江に、源氏の御一行の豪華な舟が連なります。笛の音が風に乗って水面を渡り、見物の人々は岸辺に溢れかへります。その群衆の中に、ひっそりと引き返す小さな舟がありました。
めぐり逢ひけり えにしは深しな
「難波の澪標(みをつくし)のやうに、わが身を尽くして恋ひ焦がれた甲斐あって、ここまでめぐり逢ふことができた。やはり縁は深いものだ」――明石の御方がそっと詠んだこの一首には、諦めと喜びとが重なり合ってをります。澪標とは、浅瀬を示すために海に立てる標識の杭。「身を尽くし」と「澪標」の掛け詞が、女人の心のありやうを見事に言ひ表してをります。
栄華の帰還 ── 光の復活
須磨の帖で描かれた転落と流謫。それがいかに深く暗い谷であったかは、この澪標の帖でまばゆいばかりの帰還を迎へることで、いっそうはっきりと際立ちます。
わたくしは物語を織るにあたり、光ある者には必ず影を用意しました。影を知らぬ者の輝きには深みがありません。須磨の浜で波に濡れた源氏の君だからこそ、帰還の栄華がかくも美しく輝くのでございます。
物語の意義 ── 縁の澪標
「澪標」の帖は、須磨・明石での試練が実を結ぶ章にございます。明石の御方が産んだ姫君は、のちに東宮妃・中宮となって物語を照らす光となります。流謫の地での儚い逢瀬が、いかに大きな縁の糸を紡いでゐたか――それが少しずつ見えてくる帖でもあります。
また六条御息所という複雑な女人の魂を、その娘の秋好中宮として物語に繋ぎ止めたこともわたくしの意図でございます。生ける人の縁は、死してもなほ続くものなのです。
『源氏物語』第十四帖「澪標」
── 紫式部 謹んで記す