あらすじ
宇治川に身を投じた浮舟は、死ねずに小野の里で発見され、尼たちに介抱されます。記憶を失ったやうな状態で目覚めた浮舟は、そのまま小野の庵に留まり、やがて出家の道を選びます。
浮舟は薫からも匂宮からも連絡が来ることを恐れながら、静かな尼としての生活を始めます。都から届く文にも応じず、ただ経を読み、手習ひ(習字)をして日々を過ごします。その「手習ひ」の紙に書かれた言葉が、彼女の内なる苦しみと、新たな生への意志を映し出してをります。
薫はやがて浮舟の生存を知り、小野を訪ねようとしますが、浮舟は面会を拒否します。この拒絶は、彼女が自分の意志で、初めて自分の人生を選んだ瞬間でもありました。
「手習」── 文字を書く、魂を書く
「手習ひ」とは習字の稽古のこと。しかし浮舟が書く文字には、単なる練習を超えた意味があります。言葉に出せない思ひ、祈り、自己を取り戻さうとする意志――そのすべてが、紙の上の文字に込められてをります。
つれなく澄める 秋の夜の月
浮舟が手習ひの紙に書いたとされる歌のひとつ。「この世を捨て、何も考へまいとしてゐる山里に、それでも冷たく澄んで照らす秋の月よ」――世を捨てても、心は完全には静まらない。その人間の真実が、静かな月明かりの中に浮かびます。
登場人物
浮舟(うきふね)〔出家後〕
小野の庵で静かな尼としての生活を送る。記憶を失ったかのやうな状態から少しずつ自己を取り戻し、やがて薫の訪問さへも拒む強さを見せる。水面を漂ふ小舟から、大地に根を下ろした存在へと変はろうとしている。
横川の僧都(よかはのそうず)
浮舟を発見し、後に出家の儀式を執り行ふ高僧。仏の縁によって浮舟の出家を助ける。
拒絶という選択、自由という再生
浮舟が薫の面会を拒むラストの場面は、源氏物語全体を通じて最も「近代的」な結末のひとつです。誰かのために生きるのではなく、自分自身のために生きることを選ぶ――その静かな革命が、小野の庵で静かに起きてをります。
わたくしは、浮舟に、最後の自由を与へたかったのです。流されるだけだった小舟が、ようやく岸に着いた。その安堵と、それでも消えない孤独と。両方を抱いたまま、彼女の物語は続いてゆきます。
『源氏物語』第五十三帖「手習」
── 紫式部 謹んで記す