源氏物語

幻(まぼろし)

土佐光信「幻」源氏物語絵アルバム第41帖、ハーバード美術館所蔵(1509-1510年)
見てもまたまたも見まほし難波潟
蘆の若葉のいとど茂れば

あらすじ

紫の上が世を去ってから一年。光源氏は深い喪失の中で、季節の移り変はりをただ眺めながら日を送ります。春の花も、夏の緑も、秋の紅葉も、冬の雪も――かつて紫の上とともに愛でたすべての風景が、今は痛みをともなってゐます。

源氏は日記を燃やし、蔵人少将に手紙の整理を命じ、静かに身辺を整へ始めます。この世への執着を断ち切るやうに。出家の意志を固めながら、しかし決断できぬまま、年は暮れてゆきます。

幻の帖は、源氏物語の正編の最後に位置し、源氏の消え入るやうな気配とともに終はります。次の帖「雲隠」は、ただ帖の名のみがあって本文がない――それが源氏の「死」を暗示します。

幻── 夢か現か

年の暮れに、源氏は鳥辺野(とりべの)の方角を眺め、紫の上を荼毘に付したあの日を思ひます。「幻のやうにはかなかった、この一年よ」と。

見てもまた またも見まほし 難波潟
蘆の若葉の いとど茂れば

源氏が年の瀬に詠んだとされる歌のひとつ。「見ても、もっと見たい――」。紫の上を偲ぶ思ひは、尽きることなく深まるばかりです。

源氏の「終焉」

この帖は、源氏の声で語られる最後の帖です。次の「雲隠」に本文はなく、源氏はいつしか物語から姿を消します。

わたくしは、源氏の死を直接書かないことを選びました。なぜなら、光源氏のやうな存在の終はりは、言葉では書き尽くせないからです。消えてゆく灯火のやうに、ただ静かに、この世から離れてゆく。その「語られないこと」の中にこそ、最大の悲哀があります。

登場人物

光源氏(ひかるげんじ)〔晩年〕

五十歳を超えた源氏。紫の上の死によって魂の拠り所を失ひ、静かに出家の準備を整へてゆく。かつての輝きは翳り、「幻」のやうにはかない存在となった。

紫の上(むらさきのうへ)〔追憶の中に〕

前帖「御法」で世を去った源氏の最愛の人。幻の帖では、源氏の回想と哀悼の中にのみ存在する。


『源氏物語』第四十一帖「幻」
── 紫式部 謹んで記す