源氏物語

空蝉(うつせみ)

土佐光信「空蝉」源氏物語絵アルバム第3帖、ハーバード美術館所蔵(1509-1510年)
空蝉の身をかへてける木のもとに
なほ人がらのなつかしきかな

あらすじ

帚木の帖で心に宿った空蝉への思ひを断てぬまま、光源氏はふたたび彼女のもとを訪れます。夜の闇に紛れて寝所に忍び込んだ源氏でしたが、空蝉は気配を察し、ともに寝てゐた義妹・軒端荻をそのままにして、すり抜けるやうに逃げてしまひます。

源氏が手に取ったのは、空蝉が脱ぎ置いていった薄衣一枚のみ。蝉が殻だけを残して消えるやうに、女は実体を見せずに去ってしまひました。それゆゑ「空蝉」――空の蝉の抜け殻――という帖名がつきました。

源氏はその薄衣を手に、どこか悔しく、また哀れで、しかし不思議な魅力を感じながら邸を後にします。拒まれることで、かへって恋心は深まってゆく。空蝉の毅然とした心が、源氏の心に深い傷を残した帖です。

「空蝉」── 蝉の殻に込めた意味

空蝉は中流の官吏・伊予介の後妻。身分からいへば源氏の相手として不釣り合ひな存在ですが、彼女には揺るぎない矜持がありました。人妻であるといふ自覚、源氏の恋を受け入れることへの羞恥と恐れ――そのすべてを抱へたまま、彼女は闇の中へと消えます。

空蝉の 身をかへてける 木のもとに
なほ人がらの なつかしきかな

源氏が薄衣に託した歌。「蝉が脱皮したやうに、あなたは姿を変へてしまった。それでもあなたへの思ひは忘れられない」。残された衣は、消えた人の温もりと香りだけを留めてをります。

登場人物

空蝉(うつせみ)

伊予介の後妻。中流の女性ながら、源氏の求愛を毅然として拒み、薄衣一枚を残して逃げ去る。その潔さと哀しさが源氏の心を深くとらへる。後の帖でも再登場し、出家して尼となる。

軒端荻(のきばのおぎ)

空蝉の義妹。空蝉とは対照的に、源氏の接近をさほど拒まず、奔放な気性を持つ若い女性として描かれる。

拒絶の美しさ

この物語において、源氏の恋心を受け入れない女性は稀です。多くの女性が彼の魅力と権勢に従ひますが、空蝉はそれを拒んだ。その拒絶が、かへって彼女を忘れがたい存在にしてをります。

わたくしは、この空蝉に、女の尊厳を見ました。流されることを拒み、自らの意志で選び、蝉の殻のやうにひとつの自分を脱ぎ捨てて立ち去る――その生き方の清冽さは、時を超えて読む者の胸を打ちます。


『源氏物語』第三帖「空蝉」
── 紫式部 謹んで記す