源氏物語

夢浮橋(ゆめのうきはし)

夢の世を渡る浮橋とだえして
峰にわかるる横雲の空

あらすじ

これが源氏物語の最終帖にございます。宇治十帖の末尾を飾る、まことに短く、まことに謎めいた章です。

宇治川に身を投げた浮舟の君は、横川の僧都に救はれ、ひっそりと尼となってをります。かつて彼女を深く恋ひ求めた薫の大将は、浮舟が生きてゐることを人づてに知り、その行方を探します。薫は浮舟の異腹の弟・小君(こぎみ)を使ひとして、浮舟のもとへ文を届けようとします。

されど浮舟は、一切の返事を拒みます。かつての薫への想ひも、かつての匂宮(におうのみや)への想ひも、かつての己の名も、すべてを夢のごとく手放すと定めたかのやうに。小君は姉の心を動かすことができず、空しく帰ってきます。

薫は浮舟が生きてゐることを知りながら、逢ふ術もなく、ただ呆然と立ち尽くす。物語はここで突然に終はります。続きは――誰にも知らされてをりません。

登場人物

薫(かをる)

宇治十帖の主人公にして、光源氏の名声の陰に生きる青年。実の父は柏木衛門督であるが、誰も知らない。生まれつき体から不思議な芳香を放つことから「薫」と呼ばれる。浮舟への想ひを断ちきれず、しかし彼女の沈黙の前に立ち尽くす。

浮舟(うきふね)

八の宮の隠し子にして、この物語の最後の女主人公。薫と匂宮のふたりに翻弄された末に宇治川へ身を投げ、奇跡的に救はれて尼となる。「浮舟」の名の通り、定まらぬ運命の舟のやうな生涯を送った女人。最後は沈黙をもって、過去のすべてを拒絶する。

小君(こぎみ)

浮舟の異腹の弟。薫に仕へながら、姉と薫の間を行き来する使者役を担ふ。姉の頑なな沈黙に戸惑ひながらも、薫の命を果たせず帰ることになる。この物語の最後の証人のやうな少年。

消えぬ香のやうに ── 物語の最後の沈黙

小君が浮舟の元から戻ってきました。返事はございません。薫は浮舟がこの世に生きてゐることを知りながら、その心がすでに遠い場所へと渡ってしまったことを感じます。

夢の世を 渡る浮橋 とだえして
峰にわかるる 横雲の空

夢のやうなこの世を渡る橋は、途中で途絶えてしまった。峰を横切り、そのままどこかへ消えてゆく横雲のやうに――浮舟の君の行方も、この物語の結末も、霞の中へと消えていきます。薫の心に残るのは、逢ふことも叶はない女人の面影だけでございます。

物語の意義 ── 結末なき結末

「夢浮橋」の帖は、結末なき結末にございます。五十四帖の壮大な物語が、ここで突然に筆を置かれたかのやうに終はります。

「夢の浮橋」とは、目覚めれば消える夢のなかに架かる、定まりなき橋のこと。人の世の縁も、恋も、命も、ひたすら変はりゆくこの世に生きる者の歩みも――すべてはその橋の上で揺れる幻にすぎないとでも言ひたげな、この終はり方です。

光源氏の輝かしき生涯を描いた第一部から、その業の連鎖が次代に引き継がれる第二部・第三部を経て、物語は宇治の霧の中へ静かに消えてゆきます。浮舟の沈黙は、あらゆる問ひへの答へを拒むやうです。幸福とは何か、愛とは何か、人はいかに生きるべきか――それらをすべて飲み込んで、霧は深くなるばかり。

わたくしは五十四帖を書き終へて、筆を置きました。続きを書かなかったのか、書けなかったのか、それともあへて書かなかったのか。物語の余白に、読む者おのおのの想像が宿ることを、わたくしは静かに願ってをります。


『源氏物語』第五十四帖「夢浮橋」
── 紫式部 謹んで記す