あらすじ
いづれの御時にか――この一文をもって、わたくしの物語は始まります。帝の御代に、幾人もの女御・更衣が後宮に仕へてをりましたが、そのなかに、格別に帝の御心をとらへた更衣がをりました。桐壺更衣と申す方で、お生まれの身分はさほど高くないにもかかはらず、帝の御寵愛は誰よりも彼女へと傾いてをりました。
その深すぎる御寵愛が、かへって更衣の身を苦しめます。他の女御・更衣たちの嫉妬と嫌がらせは日を追って激しくなり、御廊下を渡るたびに辱められ、心身は消耗してゆくばかり。それでも帝の御心は変はらず、更衣を守らうとなさいます。
やがて更衣は玉のやうな男の御子をお産みになりますが、産後も御体は回復せず、帝の深い嘆きの中、ひっそりと世を去ってしまはれました。帝の悲嘆は深く、更衣の遺した幼き御子を見るたびに涙をこぼされます。この御子こそ、のちに「光る君」と称へられる光源氏にほかなりません。
やがて帝は、亡き更衣によく似た姿かたちを持つ姫君・藤壺の宮を後宮に迎へられます。幼い源氏は藤壺の宮に亡き母の面影を重ね、深く慕ふやうになります。この出会ひが、物語全体を貫く宿命の糸の、最初の一縷となるのです。
登場人物
桐壺帝(きりつぼのみかど)
深く桐壺更衣を愛した天皇。更衣の死後も嘆きは癒えず、幼き光源氏に亡き人の面影を見ながら日を送る。光源氏の父。
桐壺更衣(きりつぼのこうい)
帝の御寵愛を一身に受ける女人。身分は高くないながら類ひ稀なる美しさと品格を持つ。周囲の嫉妬の嵐の中で心身をすり減らし、男の御子を遺して若くして世を去る。
光源氏(ひかるげんじ)〔幼少〕
桐壺更衣が遺した御子。帝と更衣ふたりの面影を併せ持つ比類なき美しさから、帝に「光る君」と称へられる。帝位を継がせるには惜しい美貌を持ちながら、臣籍に降下し「源氏」の姓を賜る。
藤壺の宮(ふじつぼのみや)
先帝の内親王にして、亡き桐壺更衣によく似た姿かたちを持つ宮。帝の後宮に迎へられ、幼い源氏が慕ふ「母の面影」となる。のちに源氏との禁断の縁が結ばれ、物語の核心を担ふ。
更衣の辞世 ── 命の果てに残した言の葉
帝のもとを離れ、里に下がった更衣はそのままはかなく逝ってしまはれました。使ひが飛んで知らせを受けた帝の御嘆きは、言葉に表しやうもないほどでした。
更衣が最期の床で詠まれたとされる歌がございます。
いかまほしきは 命なりけり
「もうこれが最後と、あなたと別れるこの道がかくも悲しいのに、せめてもう少しだけ生きながらへたいと思ふのは、この命ゆゑでございます」――あと少し、あとほんの少しだけ生きてゐたかった。その切なる願ひが、静かな言葉の中に凝縮されてをります。読むたびに胸がしめつけられる辞世の一首でございます。
物語の意義 ── すべての源へ
「桐壺」の帖は、源氏物語五十四帖の「源」にございます。帝の深すぎる愛、それゆゑに生まれた嫉妬と排斥、若い命の儚い消え方――これら源氏物語を貫くすべての主題が、この第一帖にすでに宿ってをります。
わたくしは、このひとりの女人の生涯に、人の世の縮図を見ました。どれほど深く愛されても、それがかへって苦しみの種となることがある。美しきものは儚く、儚きものは美しい。「もののあはれ」の心は、この帖から始まるのです。
そして更衣の遺した幼き御子が「光源氏」として輝きを放ち、その輝きが新たな悲劇と喜びの連鎖を生んでゆく。五十四帖の壮大な物語は、この桐壺の更衣の命と引き換へに生まれたと申してもよいかもしれません。
『源氏物語』第一帖「桐壺」
── 紫式部 謹んで記す