あらすじ
夏の盛りから秋へ、光源氏十七歳の頃。六条御息所のもとへ忍んで通ふ道すがら、乳母の見舞ひに立ち寄りたまひし五条の宿にて、源氏は一軒の粗末な家の白き花に目をとめたまひます。夕顔の花――質素にして清らなるその白さが、あたかも人の気配をまとふやうで。
やがて、その家に棲まふ女人との不思議な縁が結ばれました。名も身分も明かさぬ女人は、品格の中に素朴な愛らしさを備へ、源氏の君の心をとらへたまふ。夜ごとひそかに逢瀬を重ねるうち、源氏は彼女を「夕顔」と心の中で呼ぶやうになります。
九月のある夜、源氏は夕顔を連れ、誰も住まぬ廃院(ある貴人の荒れ果てた屋敷)へ忍んでゆきます。月明かりの下でのどかに語り明かす二人。されど暁の夢うつつに、光源氏の眼前に物の怪の形が現れ、夕顔はそのまま息絶えてしまひます。六条御息所の生霊が取り憑いたと言はれてをります。
突然の喪失に打ちひしがれた源氏の君は、ひそかに夕顔を葬り、深く悲嘆にくれたまふ。夕顔の君――その生涯も、その正体も、露ほどに儚きままに消えていきました。
登場人物
光源氏(ひかるげんじ)
帝の皇子にして、類ひ稀なる美貌と才を持つ貴公子。この帖では十七歳。多くの女人との恋を重ねる中、夕顔の飾らない純朴さに心を動かされる。
夕顔(ゆうがお)
五条の粗末な宿に棲まふ女人。本名は明かされず、源氏に「夕顔」と心の中で呼ばれる。かつて頭中将(源氏の親友)の恋人であったが、正妻方の嫉妬を恐れて身を隠してゐた。素直で愛らしく、身分の低さを感じさせぬ品のある女人。
右近(うこん)
夕顔の侍女にして信頼篤き腹心。夕顔の死後、源氏のもとに仕えることになる。後に玉鬘の養育にもかかはる重要な女性。
六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)
源氏の恋人のひとりにして、誇り高き女人。その生霊が夕顔を死に至らしめたと言はれるが、本人は気づいてをらず、夢の中で見知らぬ女人と争ふ不思議な夢を見るのみ。
白き花と逢瀬の情景
五条の宿の垣根を越えて、白く可憐に咲き誇る夕顔の花。日が暮れると開き、夜明けとともに閉ぢるこの花は、まるでこの恋そのものの象徴のやうでした。
侍女の右近が、白い扇に添へてそっと差し出した端書き。
光そへたる 夕顔の花
「おそらくあなた様かと、白露の光を映した夕顔の花越しに見上げております」――このひとことに、夕顔の控へめな機知と情の深さが宿ってをります。名乗りもせず、ただ花の白さと朝露の輝きをまとって現れたこの女人を、源氏の君は心から愛しまれました。
廃院の夜 ── 幸福と死の狭間
誰も住まぬ廃院に月光が差し込み、荒れた庭に秋草が風に揺れる夜。源氏と夕顔は、世の一切を忘れ、ただふたりだけの夢のやうな時を過ごします。
この幸福が永続しないことを、読む者はどこかで知ってをります。夕顔の花は夜に咲き、夜明けに散る。この恋の輝きもまた、朝の来ぬ夜はないやうに――。
暁の物の怪の出現は唐突で、それだけに読む者の胸を鷲掴みにします。わたくしは、この場面をあまりに詳しく描きませんでした。霞の中に消えるやうな描写が、かへって死の不条理と、生の儚さを際立たせると思ったから。
物語の意義 ── 儚さの美学
「夕顔」の帖は、源氏物語における「はかなさ」の美学が最も純粋な形で結晶した章にございます。名も身分も定かならぬ女人との、束の間の純粋な愛。それが突然の死によって断ち切られる。
身分制度の中で輝かしき出世の道を歩む源氏の君にとって、夕顔は何者でもない女人でした。されどだからこそ、そこにあったのは飾らぬ心と心の触れ合ひだったのかもしれません。
夕顔の君が遺したのは、白い花の記憶と、のちに源氏が養女として引き取る娘・玉鬘の命だけ。されどその記憶は、源氏の君の心に生涯消えない傷として刻まれてをります。
『源氏物語』第四帖「夕顔」
── 紫式部 謹んで記す