あらすじ
春の盛り、光源氏十八歳の頃。わづらひ給ひし折、北山の聖のもとへ加持祈祷を受けに赴きたまふ。山里の閑寂なる寺にて静養なさる中、ある日、垣間見たまひし一人の少女――藤壺の宮に生き写しのやうな面影を持ち、まだ幼き身ながら清らに愛らしき姿。
その少女こそ、藤壺の宮の兄・兵部卿宮の娘にして、藤壺に血を通はす姫君にございました。亡き母を慕ひ、尼君に育てられるその少女を、源氏は「紫の根にかよひける野辺の若草」と詠み、いつか我が手元に置きたいと切に願ひたまふ。
やがて尼君が病に倒れ、その不幸を機に、源氏は少女を二条院へ引き取りたまひます。幼き紫の上は、この時はまだ源氏の君の真の意図を知らず、ただ優しき人として慕ふのみ。されどこれこそが、光源氏の生涯において最も深く長き愛の物語の、静かなる始まりにございました。
登場人物
光源氏(ひかるげんじ)
帝の皇子にして、比類なき美貌と才を持つ貴公子。藤壺の宮への叶はぬ恋に苦しむ中、その面影を宿す幼き紫の上に運命の縁を見出だす。この帖にて十八歳。
若紫(わかむらさき)── のちの紫の上
藤壺の宮の兄・兵部卿宮の娘。母を早くに亡くし、祖母の尼君に北山にて育てられる。まだ十歳ほどの幼子にして、清らなる美しさと聡明さを備へる。源氏に引き取られ、のちに生涯の伴侶となる運命の女性。
尼君(あまぎみ)
若紫の祖母にして、亡き娘の忘れ形見を慈しみ育てる老女。病に臥し、この世を去る前に、源氏に紫の上を託す。
僧都(そうず)
北山の聖なる僧にして、源氏の加持祈祷を行ふ高僧。尼君の兄にあたる。徳高く、源氏を手厚くもてなす。
藤壺の宮(ふじつぼのみや)
帝の中宮にして、源氏が密かに慕ひ続ける女性。若紫の叔母にあたる。この帖には直接は登場せぬものの、源氏の心に常に在り続ける存在。
北山の情景 ── 春の訪れと出逢ひ
霞たなびく北山の峰、雪解けの水音が谷間に響き、梅の香ただよふ春浅き候。都の雑踏を離れ、山寺の静寂に身を置く源氏の君は、ふと垣間見たまひし少女の姿に、心奪はれたまふ。
雀の子を犬君が逃がしたると泣きじゃくる幼き姿、黒き髪の美しく垂れたる様――すべてが藤壺の宮を彷彿とさせ、されど無垢なる愛らしさに満ちてをりました。源氏の君は、この一瞬の邂逅こそが、天の配剤にあらずやと感じ給ふ。
根にかよひける 野辺の若草
「紫」とは藤壺を、「若草」とは幼き姫を指す――この歌に、源氏の切なる願ひのすべてが込められてをります。
物語の意義 ── 紫の上の登場
この「若紫」の巻は、『源氏物語』五十四帖の中でも殊に重要なる一帖にございます。なぜならば、物語全体を通じて源氏の君の最愛の人となる紫の上が、ここに初めて登場するからにほかなりません。
藤壺への叶はぬ恋、葵の上との心通はぬ結婚生活――そのすべてから逃れるやうに、源氏は幼き紫の上を理想の女性として育て上げようとなさいます。されどこれは、果たして愛と呼べるものなのか。それとも、藤壺の代償としての執着なのか。
わたくしは、この問ひに明確な答へを記しませんでした。ただ、時を経るにつれて、源氏と紫の上の関係が真の愛へと深まりゆくさまを、この先の物語にて描いてをります。
春の北山 ── 桜と若草の象徴
北山の春は、まさに「若紫」の主題そのものを象徴してをります。芽吹きたる若草、ほころび始めたる桜、谷間を流るる清水――すべてが新しき命の萌え出づる季節。
幼き紫の上もまた、これから咲き誇らんとする一輪の花にたとへられます。源氏の君は、その花がまだ蕾のうちに手折り、己が手で育てることを選びたまふ。それは愛ゆゑか、それとも――。
春の北山の美しさの中に、この物語の光と翳のすべてが宿つてをるのです。
『源氏物語』第五帖「若紫」
── 紫式部 謹んで記す