源氏物語

蜻蛉(かげろう)

土佐光信「浮舟」源氏物語絵アルバム第51帖(蜻蛉帖に流用)、ハーバード美術館所蔵(1509-1510年)
ありと見て手にはとられず見ればまた
行方も知らず消えしかげろふ

あらすじ

浮舟が宇治川の岸辺から姿を消しました(前帖「浮舟」より)。薫は浮舟が川に身を投げたと報されますが、遺体も見つからず、死の確証がありません。匂宮もまた深い悲しみに沈み、病がちになります。

薫はこの帖で、浮舟の死を悼むと同時に、奇妙な宙吊り状態に置かれます。死んだのか生きてゐるのか。愛してゐたのか、大君の面影を追ってゐたのか。自分は何を失ったのか。すべてが蜻蛉のやうに、見えてゐるやうでつかめません。

薫は浮舟の形見を集め、追善の法会を営みます。匂宮のもとを訪ね、ふたりはほとんど言葉も交はさず、ただ悲しみを共有します。あれだけ張り合ってゐたふたりが、浮舟の消えた後に、喪失という共通の痛みだけを抱へて向き合ふ。

「蜻蛉」は水辺に生きる夏の虫。はかない命の象徴でもあり、掴まうとすると逃げてしまふ存在でもあります。薫の手の中から消えた浮舟が、まさにその蜻蛉のやうでございます。

登場人物

薫(かをる)

浮舟の死を悼みながら、自分の愛が本物だったか問ひ続ける。喪失の確証すら持てない曖昧な悲しみの中に沈む。この薫の不確かさが、宇治十帖全体の哲学的なテーマを体現してゐる。

匂宮(においのみや)

浮舟への深い後悔と悲しみで体を壊す。自らの多情が浮舟を追い詰めたことへの罪悪感が、匂宮を変へてゆく。

蜻蛉の歌 ── 消えた面影

浮舟の形見に向かひ、薫は静かに歌を詠みます。

ありと見て手にはとられず見ればまた
行方も知らず消えしかげろふ

「いると思って手を伸ばしても掴めず、見ればまた行方も知れず消えてしまった蜻蛉よ」――浮舟は確かにゐた。しかし手を伸ばしても届かなかった。そして今、どこへ行ったかもわからない。この一首に、薫の愛の本質的な曖昧さと、浮舟の存在の儚さが凝縮されてをります。

物語の意義 ── 問ひのまま

「蜻蛉」は答へのない問ひの帖でございます。浮舟は本当に死んだのか(実は「手習」で生存が明かされますが、薫はまだ知りません)。自分の愛は本物だったのか。何を失ったのか。

紫式部は明確な答を与へません。蜻蛉のやうに、真実はいつも見えてゐるやうで掴めない。生とは、愛とは、かくも頼りなく美しいものなのかもしれません。


『源氏物語』第五十二帖「蜻蛉」
── 紫式部 謹んで記す