源氏物語

横笛(よこぶえ)

土佐光信「横笛」源氏物語絵アルバム第37帖、アーサー・M・サックラー美術館所蔵(1509-1510年)
横笛のしらべはことに変はらぬを
むなしき音のなほや響くらむ

あらすじ

柏木が若くして世を去りました。女三の宮との密通が源氏に知られ、その冷たい眼差しと、自らの罪悪感に耐えられず、柏木は心の病を得て逝ったのでございます。残されたのは、柏木が大切にしてゐた横笛一管でございます。

柏木の遺した横笛は、親友・夕霧のもとへ渡ります。夕霧はある夜、柏木の亡魂が夢枕に立ち、「横笛を女三の宮に届けてほしい」と告げるのを見ます。夕霧はその夢の意味を考へながら、女三の宮のもとを訪ね、横笛を渡します。

源氏も横笛を耳にし、その音の中に死んだ柏木の魂の響きを感じます。笛の音は人の言葉より雄弁に、罪と赦しと哀惜とを語ります。「むなしき音」とは、肉体を失った魂の音でございます。しかしその音は、生きている者の胸に、死者の存在を確かに伝へてをります。

登場人物

夕霧(ゆうぎり)

亡き友・柏木の横笛を受け取り、夢の告げに従って女三の宮へ届ける。誠実な夕霧がはじめて宮と直接向き合ふ場面は、後の物語への伏線ともなる。

柏木(かしわぎ)の魂

すでに肉体を失ってゐるが、横笛を通じて夕霧の夢に現れる。死してなほ執念が消えぬやうに見えて、しかしその最後の言葉はただ横笛を女三の宮へ――。愛の深さと罪の重さが一体になった亡霊。

光源氏(ひかるげんじ)

横笛の音に柏木の魂を感じ、複雑な感情を覚える。怒りと哀憫と、そして自分への問ひかけが混じり合ふ。

女三の宮(おんなさんのみや)

出家した後も横笛を受け取る。その薄い指にかかる笛が、かつての罪のかたちをとどめてゐる。

横笛の歌 ── 変はらぬしらべ

夕霧は横笛を手にして、亡き友の面影に向かひ歌を詠みます。

横笛のしらべはことに変はらぬを
むなしき音のなほや響くらむ

「横笛のしらべは(以前と)まったく変はらないのに、虚ろな(持ち主のゐない)音がなほも響いてゐることよ」――笛の音色はそのままに、吹く人だけがゐない。変はらぬものと、変はってしまったこととの対比に、夕霧の哀惜が滲みます。

物語の意義 ── 死と継承

「横笛」は、死者の声が物を通じて生者に届くことを描きます。それは源氏物語が繰り返し問ふ「もののあはれ」の核心でもございます。

柏木は死んでも横笛の音として残る。横笛は女三の宮のもとへ渡り、薫(柏木の実の子)の父の影として生き続ける。すべてはつながり、途絶えず、形を変へながら流れてゆくのでございます。


『源氏物語』第三十七帖「横笛」
── 紫式部 謹んで記す